HP
原案 ゆめこ/こひ
物語 ゆめこ/みかげ
小説 みかげ
表紙 cyawa
◆
今朝は季節外れの秋めいた風が村を吹き抜けていた。開けっ放しにしていた窓からは冷たい空気が寝間に入り込み、スズに起こされなくとも改汰は身震いをして覚醒した。なにぶん天気が変わりやすい山あいの村である。こんな日もあるだろうと改汰は大して気にも止めなかった。時計は七時を過ぎた頃を指しており、そろそろスズが起こしに来る頃合だがまだ眠い。窓を閉め、さてギリギリまで二度寝を決め込もうとした瞬間、
「朝だよー! 改汰!」
スズが勢いつけて布団を剝ぎ取るので、潔く起きることにした。もはや習慣になりつつあったので、改汰が朝食の席についても誰も驚かなくなっていた。それからいつも通り朝食を済ました後「さて今日の予定はどうするか。」と、改汰とスズと美恋はだらだらとテレビを見ていた。流れるニュースはさして面白くはない。特に地方局ともなれば海水浴場が盛況だとか、B級グルメ巡りだとか、そんなものばかりである。改汰の横目では、スズは相変わらずよく分かっていない様子で、美恋は大きな欠伸をしていた。
「美恋、チャンネル変えていいか?」
「あいよー。」
改汰がリモコンを片手に、適当にボタンを押そうとして「向日葵畑が見頃です!」とのアナウンサーの一言で手を止める。俯瞰する画面いっぱいの藤黄色が画面を埋め尽くしていた。スズが一歩テレビに近付き「わあ、きれー!」と感嘆を漏らした。
「そういえばこの辺りにもあるわよねえ、向日葵畑。」ふと、美恋が言った。
「そうだっけ?」
「ほら、駄菓子屋さんをもーっと奥に行ったところに誰が整備してるのか分からない向日葵畑があるじゃない? 小学生の時だっけ、おじいちゃんに車で連れて行ってもらったとこ。」
「…………あー、あそこか。よく覚えてるな。」
「スズちゃん、興味ある? 行ってみる?」
「いいの!? 行く、行ってみたい!」
スズが目を輝かせながら首を縦にぶんぶんと振った。いわゆる『映え』というやつなのだろう、なぜか女子はこういうものを好むんだよなあ。改汰はそう思うも、決して口には出さなかった。口にすれば最後、美恋が蛇のごとく睨むのは想像するに容易い。「そうと決まれば、」と、美恋はスズを隣の部屋に連れ去って行った。
「あ、おーい! どれくらいかかるんだ!?」
こうなると長くなるのを経験上知っている。
「一時間以内には!」
絶対に一時間で終わるわけがないことも、経験上知っている。改汰は本棚から適当に漫画を取り出し、渋々二人を待った。
実際、彼女達が姿を消してから一時間と十分が経過したのだった。改汰は漫画を読むのにも飽き始め、痺れを切らして隣の部屋の襖をノックした。
「おーい。あとどれくらいなんだ?」
「あとちょっと!」扉の向こうから美恋が返事する。
「あとちょっと、って待たされるこっちの身にも……!?」
どうせいつものことだ、美恋がメイク道具を床じゅうに散らかしているのだろう。深く考えずに襖を開けた改汰の目に飛び込んできたのは、薄手のキャミソールとショーツが露わになったスズだった。スズが顔を真っ赤にして硬直し、改汰は混乱して動作が停止する。水玉模様のショーツが食い込んだ桃のような臀部から目が離せない。
目の前の物体は一体何なのだ。そう、あれは、女子の尻。おれはくわしいんだ。おとーさん、おんなのこってほんとうにおしりがあるんだね。
「へんたーーーーーーーーーーーい!!」
野球選手さながら美恋が投げたマスカラが改汰の額を直撃し、止まっていた世界が動き出した。
「本当にスミマセンでした……。」
自業自得と言えばそうなのかも知れない。原付バイクに乗った美恋とスズを追いかけるように、自転車を全速力で漕ぐこと三十分、鈍った身体が悲鳴を上げるには充分だった。
「ははははっはー! 早く追いつきたまえ!」
「くっそ……!」
後で絶対に覚えてろよ。改汰は心の中で舌打ちする。
「改汰、がんばれー!」
スズは原付バイクの後ろに乗って、美恋にしがみついていた。改汰のほうを振り返るスズの、ひとつに結われた髪が気持ち良さそうにはためいた。終わらない一本道。地平線は逃げ水のようで、一向に辿り着つく気配がない。長年に渡って蓄積された、落としきれない錆を纏った自転車はぎしぎしと鳴き声を上げ、今にも車輪が外れそうだ。美恋はわざとことさら速度を上げるばかりで、改汰は舗装されていない黄土の道をひたすらに駆けた。息が上がって全身に血が巡り、顔が熱くなるのを感じる。美恋の悪代官さながらの笑い声がこの長い一本道にたなびくように響いていた。絶対に覚えてろよ。もう一度、心の中で悪態をついた。
向日葵はニュースの通りに満開であった。彩度の高い黄が露草色の空にかかって、終わりが見えない。その向こうには背伸びした入道雲が見える。うつくしい夏の魔物がぽっかりと口を開けて待っていた。客は他におらず、ここは三人だけの世界だ。スズは改汰の回復を待ちきれずに向日葵のなかに入っていった。
「迷子、に、なる、なよー!」
息切れし、声を掠れさせながら改汰は叫ぶ。「はーい!」と、どこからかスズの返事がした。
「おつかれさん!」
「ほんと……ふざけんなよ……おれ……ちょっと休憩……。」
「『オイシイ思い』した応酬よ。あたし、スズちゃん追いかけるね。」
「よろ、しく……。」
美恋が向日葵畑に姿を消したのを見届けて、改汰は力が抜けたように地にへたり込んだ。持ってきた水筒を開け、水を喉に流し込む。気持ちの良い冷たさが肉体の隅々にまで染み込む気がした。向日葵の視線は一様に太陽に向けられ、餌を待つ雛鳥のようだ。景色は夏模様を描き、肌に感じるのは少しばかりの冷たさを含んだ青嵐である。改汰はふぅ、と長い息を吐いた。
スズが来てからは忙しない毎日が続いている。しかし、心が弾むような感覚は久しぶりだった。同時に怖くもある。この季節が終わればつまらない日常が待っているのだろうか、という恐怖だ。この感情の当事者になるには改汰にとってまだ勇気が足りなかった。文化祭ではもっぱら出し物の列整理係で、頼まれごとは誰かの代打で、気になっていた女の子はイケてる先輩と付き合っていた。その度に、己の人生の主人公ではない気がした。例えば今、向日葵畑を眺めながら小気味好いエレクトロニカを聞いていたのに、通り掛かった車から爆音で流れるメタルに邪魔をされたらまるで面白くないだろう。そして聞くのを止めてしまうかもしれない。けれどそれはちょっとした『不運』なのだ。その『不運』を積み重ねてきた惨めな自分に新鮮な感情が雪崩れこむのだから、抵抗があっても仕方がないのである。
「改汰、来ないの?」
向日葵の隙間から、ひょっこりとスズが顔を出していた。
「今行くよ。」
尻についた土埃を払い、小走りで向かう。それから三人は向日葵の中で遊んだ。かくれんぼや、おにごっこをしたり、不意をついて横から脅かしたり、まるで幼子のように走り、笑い、そこには過去の嫌厭も未来への不安もなく、ただ『今』だけがあった。向日葵の葉が陽に透けて、三つの人影は萌葱色の影と重なる。
「くっしゅん!」
「あら、スズちゃん大丈夫?」
その可愛らしいくしゃみの主はスズであった。そういえば、もうすぐで正午だというのに気温は上がらず相変わらず肌寒い。そのうち暑くなるだろうと美恋もスズも羽織を持ってこなかったのが裏目に出たようである。美恋はといえば『ファッションのためなら多少の寒さは耐えられる』という最近の若者らしい考えの持ち主なので、正月でも生足を出してるような人間だ。大丈夫だろう。
「あ、これ着る?」改汰が上着のシャツを脱ぎながら尋ねる。
「へっ?」
スズが素っ頓狂な声をあげ、改汰は咄嗟の言動を恥じた。脱ぎかけていたシャツを慌てて着直す。
「あ……ああいや! 汗臭いよな!」
「ううんっ! ……ありがとう。」
そう言うので、(一応汗臭くないか確認して)スズにシャツをかけてやった。スズが「えへへ、あったかい。」とわらって、改汰はつられて破顔したが、美恋のニヤニヤした表情が目に入ってわざとらしく咳をした。
「なんだよ、」
「別にぃ~? 優しいなと? 思いまして?」
「うるさいなっ!」
「ねえ、ふたりとも! もっと奥のほうはどうなってるのかな?」
二人の口論はお構いなしにスズがきらきらと双眸を輝かせて、
「行ってみようか!」
美恋が応えて走り出し、追いかけようとしたスズを改汰は呼び止めた。
「なあ、スズ。」
「なーに?」
「スズはこの夏が終わったら、」
居なくなっちゃうのか?
言葉が喉に引っかかって、上手く言えなかった。そして「この嫌な感じ、なぜか懐かしい。」と、改汰は漠然と思った。スズに度々感じる、色とりどりの感情。紫や橙や青がちぐはぐに綯い交ぜられたような、まとまりも一貫性もない気持ちはどうにも居心地が悪くなる。その間もスズは改汰の言葉を待っていた。だから、言おうとしたものを飲み込んで、一言、
「来年もここに来ような。」
と、未来への希望を託した。それが今の改汰の精一杯の強がりだった。
「……そうだね、きっとね。」
スズの微笑みのなかにひとさじの哀しさが込められていたのには気付けずにいた。
◆
スズが向日葵畑を背にした瞬間、あの駄菓子屋でぽつんと座っていた老婆を思い出した。「この向日葵畑の鱗片だけでもあの老婆に見せてあげたい。」と思い、改汰と美恋に提案すると、二人は「いいね、それ!」と快諾してくれた。だから目立たない場所を選んで向日葵を一輪、根本に近いところでぽっきりと折って、行きと同じ道を引き返した。スズは向日葵が風で萎びないように大切に抱えた。
「おばーちゃん、いる?」暖簾を潜り抜けて、美恋が呼ぶ。
「なんだ、昨日は改汰で、今日は美恋かい。」
老婆は昨日と変わらず、黄ばんだ本を片手に古木の椅子に座っている。
「改汰とスズちゃんもいるよ。お土産持ってきたんだ!」
「あの、これ……! 私たち、向日葵畑に行ってきたんです。それでおばあさんに見せたくて……。」
「おや、あそこに行ったのかい。ありがとうね。」
スズが向日葵を差し出し、老婆は目元の皺を深くした。薄暗い店の中で、その鮮やかな黄色は奇妙に佇んだ。
「懐かしいね……。子どもの頃、あんたたちのばあちゃんと夏になればあそこで遊んだものさ。もう皆あちらに行っちゃったね。私のお迎えはいつ来ることやら……。」
本気にも冗談にも取れる口ぶりだった。改汰は答えあぐねており、美恋はこの口上には慣れているのか、盛大に溜め息を吐く。
「おばーちゃん、またそんなこと言って! あたし、この花生けたいんだけど、花瓶……だと小さいか。壺とかある?」
「勝手口に丁度良い壺があるけども、重いから男手が必要だね。それとついでに、畑からいくつか野菜を取って行きなさい。みょうがが生えてるよ。……どれ、私も行くかね。」
「助かるー! ついでにトイレも借りていい?」
「はいはい。」
「改汰、行くよ! スズちゃんはこの辺で適当に待ってて!」
老婆が立ち上がろうとして、改汰が両手を差し出す。老婆はそれに捕まり、ゆっくりと膝を伸ばした。
「あ、私も、」
スズがついていこうとして、気配を感じて外を振り返る。三人は奥へ入っていき、静寂と埃の匂いだけがスズを囲んだ。何かがいる――スズに残る、野生の勘が働いた。入口の敷居をまたぎ、夏日の強い陽射しで網膜に痛みを感じた。それもすぐに慣れて、スズの勘が当たったことを知る。
「だれ?」僅かに眉を寄せて、スズが問うた。
「私は北颪(きたおろし)。」白い狐面の男が答えた。
「私は雷鳴(らいめい)。」黒い狐面の男が答えた。
二人は鏡合わせのようで、知らない顔ぶれだった。
「結界を破り、花を食べたのは君だな。」
「君は重大な罪をいくつも犯している。直ちに我々に従ってもらう。」
瞬間、弾けたようにスズの足はどことも知れぬ方へ動き出そうとしていた。胃液がぐるぐると渦巻くような、内臓のすべてが大きく脈打って、それはほとんど本能であった。
「待て!」
黒い狐面の――雷鳴が早足に駆け寄り、スズの腕を掴もうとして、バチンッ! と音を立てて弾き返す。それは静電気よりも大きく、稲妻に近かった。その大きさの反動で、スズもよろめく。北颪と雷鳴は顔を見合わせる。スズ自身も何が起こっているのか分からずに身震いし、同時に腹のあたりが熱くなるのを感じた。毎日広がっていく痣だ、それが何か悪さをしでかしているのだとすぐに気付く。
「山神様に知らせなければ。」
「そうだ。知らせなければ。」
スズは今度こそ慄いた。会ったことはないが、その名を知らぬ妖狐はいない。そして「二人は山神様の遣いなのだ。」と思った。
「あー助かった。おばーちゃんありがと! ……あれ、スズちゃんは?」
店から美恋の声がした。スズが一瞬、二人から目を離した後に、再度そちらに顔を向けると、彼らは足跡ひとつ残さず消え失せていた。今見たものを幻か夢かと思いたかった。それでも、腹に纏わりつくいやな熱さが現実だったのだと言い聞かせてくる。
一度手折ってしまえばあとは枯れるだけの向日葵。それと同じだ。なんとなく分かっている。終わりの合図が一歩、一歩、忍び寄ってきて、近いうちにスズを浚っていく。『来年』がないのなら、せめて『今』だけを見ていたい。
だからその日の夜もスズは思い切り笑った。心霊特集番組を見てスズは美恋に飛びつく。その横で改汰が反射的に腕を広げてしまった姿に、美恋とスズは腹の底から笑う。改汰は顔を真っ赤にして、それがどうしようもなく愛おしかった。いつまでもこの日が続けば良いのにと願うことが、今では何よりも罪深い。菊丸の「お前の居場所はここじゃない。」という言葉、北颪と雷鳴がスズを捕らえに来たこと。何かが始まり、終わる予感がする。椨の匂いがいつもより濃い気がして、このからだはじぶんのものではない気がして、魂が消えていくような気がして。その恐怖を打ち消すように、スズは笑った。
ずっとわらっていた。
◆
美恋が風邪を引いた。異常気象は今朝も続き、昨日寒かったのに薄手の服を着ていたからだろうと周りは苦笑した。村の誰々さんも風邪気味だって言ってたわね、そういえば誰々さんのところが……と、朝の団欒は不穏な噂で持ち切りである。「この調子だとおれとスズの根も葉もない噂が流れるのは時間の問題だろうなあ。」と、改汰の背筋が凍った。櫛の歯がかけたようにぽっかりと空いた美恋の席。隣のスズはといえば気が付けば暗い影を落としていた。
「スズ、」
「どうしたの?」
なんとなく声をかければすぐにいつも通りの笑顔を貼り付ける。
「えっと……大丈夫か? やっぱりまだ本調子じゃない?」
「そんなことないよ! 大丈夫、大丈夫! ちょっと考え事してただけ!」
今日もやけに肌寒い日だった。だからスズも風邪を引いたらいけないと秋の装いのように着こませた。そんな折、祖父が件の屏風を拝殿に移動させて欲しいと改汰に頼んできた。普段こそ拝殿にあるのが自然な屏風がなぜ家の一室にあったのか、改汰が何気なしに尋ねる。すると「春先に整理を兼ねた拝殿の大掃除をしてどかしたのは良いが、面倒くさくなって置きっぱなしにしていた。」との返事に、改汰や美恋の面倒くさがりな側面は血筋なのだと痛感させられるのであった。そんなわけで、スズの手も借りて移すことになった。数日後には野上神社の夏祭りがあり、各々準備に着手する。毎年、この頃合になると改汰も駆り出され、いい加減遊んでいられなくなるのだった。
屏風はスズと改汰が二人で持ってようやく歩けるほどの重さがあり、うっかり落としたりぶつけたりしないよう細心の注意を払って、白檀の香り漂う拝殿へと運び入れた。そうしてゆっくりと開くと、そこには見慣れた――狐のような化け物と陰陽師のような男が対峙する絵があらわれた。
「これは何?」スズが尋ねる。
「ああ、これ? なんでも野上神社のはじまりが描かれてるらしいんだ。」
「野上神社のはじまり?」
改汰は祖父の話を必死に思い出し、おぼろげな記憶を頼りに口を開く。
「えーっと……なんか千年くらい前にこのあたりで凶作が続いたり疫病が蔓延したりですげー大変なことになって『厄災だー』とか言ってた時に、どこからかおれらのご先祖様がやってきたんだと。で、ご先祖様は神通力使ってその厄災とやらを追い払った。そしてご先祖様が山の麓に神社建てたら厄災も起きなくなるって言うもんで、村人たちはその通りに神社を建てたんだってさ。それがこの神社らしい。」
小さい頃から幾度も聞かされてきたせいか、馬の耳に念仏だとしても意外と覚えているものだ。改汰は上手く話せたことに内心したり顔をしていた。一方で、耳を傾けていたスズは目を丸くしていた。
「ちがう、だって……菊に聞いた話は……。」
スズがわずかに唇を震わせた。
「きく?」
「あ、えっと、ごめんなさい! 昔、友だちから似たような話を聞いたことがあって、私、記憶違いしてたみたい。」
「ふーん。まあ、伝説なんて似たような話が各地に散らばってるだろ。ましてや神通力とか……現実的じゃないし。証拠があるわけでもないから後付けされた可能性も充分にあるしさ。こんなこと言ったらじいちゃんに怒られそうだけど。――さ、そろそろ戻ろう。この数日間、とにかく忙しいんだ。巻き込んでごめんな。」
家事の手伝いをしているとはいえ、客人である。それでも美恋が倒れた今、スズに頼る他なかった。それに対しスズは気にしておらず、むしろ野上家に混じることを喜んだ。
「ううん、いいの! 私、こんなにわいわいしたことなかったから、とっても楽しいよ。」
祭りの当日は周辺の村や主要部からも人がやってきて大賑わいになる。屋台が立ち並び、祭囃子が絶え間なく聞こえるのである。橙と紺の空気感を、これまでの改汰は些か鬱陶しいとすら思っていたのに、今年は楽しみだった。そして、その理由は分かっている。
――ご先祖様、せめてそれまではスズを引き留めていてください。
数日前までは空っぽだった願い事が胸に満ちていく。それを今、心のなかで手を合わせた。
◆
黒狐一族の屋敷の大広間には、伝説を語り継ぐ掛け軸が何よりも目立つようにかけられている。掛け軸には、そびえ立つ山に覆いかぶさるおどろおどろしい黒狐と、その麓で倒れ苦しみもがく人間たちの絵が描かれている。黒狐一族で、その伝説を知らぬ者はいない。
――その昔、まだ人と妖が共存していた頃。妖力の高い黒い狐の毛皮を纏えば護身になると評判が広まり、人間たちのあいだで黒狐狩りが横行した。実際、黒狐の毛皮は高く取引されていたようで、山に入って黒狐を狩る人間は増えるばかりであった。それは黒狐一族にとって空前絶後の大虐殺事件である。そこで当時の黒狐の長はその溢れんばかりの妖力を使い、土地を呪った。
周辺の土地には疫病、農作物の不作、神隠しなどさまざまな厄災が降りかかった。人間は狐の祟りだと恐れをなし、黒狐狩りは収束していった。しかし黒狐の長は悪妖となり、見境なく厄災を齎す危険な存在となった。それを黒狐一族総出で封じ込めたのである。当時の長は己の身を呈して一族を守った救世主として今も崇められており、同時に人間は残酷で相いれない存在として人里に下りたり関わったりしてはいけないと、狐塚(さと)の掟がつくられた。
菊丸は現頭首である己の父が話し合っている様子を、入口の影に隠れて聞き耳を立てていた。息を浅くし、気配を出来得る限り押し殺す。まるで獲物を狩るように。部屋は薄暗く、蝋燭の灯りに映る三つの人影が揺らめいた。
「捕らえ損ねたか……。アレは伝説にある悪妖になり得る。その前に殺さねばならない。」
現頭首――菊壱が言った。
「そのことだが、」と雷鳴。
「この件は山神様自ら手を下すそうだ。」と北颪。
「山神様が?」
菊壱が意外そうに、俯けた顔を上げて、北颪が続けた。
「アレが食べた『花』は山神様がたいそう大切にしている『花』の一部だ。すべて獲られなかったのが不幸中の幸い、この山の結界は完全に力を失い今ごろ悪妖に乗っ取られていただろう。しかし一部でも増大な妖力を秘めている。それが外部に出たとなればあとは山神様の御力にお任せする他ない。」
「そうか……山神様が仰るのであれば、それに従おう。なら我々は引き続き山神様の命令を待つのみだ。」
「承知。」
北颪と雷鳴が消え、菊丸は「まずいことになった。」とこめかみに手を当てた。このままではスズは悪妖になるか、殺されるかのどちらかだ。スズ、スズ。彼女の天真爛漫な笑い声が脳裏を過ぎる。あの笑顔も、声も、失くさせはしない。今のうちにどこか遠く二人で逃げ、呪いを解くすべも見つけ出せたら。事態は一刻を争っていた。菊丸はその場を離れようとし、
「菊丸。」
菊壱の冷たい声色が彼の名を呼んだ。いつから気が付いていたのだろうか。装束が擦れる音ですら気を払っていたというのに。鳥肌が立つ。駄目なのだ、この声は。菊丸は観念したように姿を見せる。目が合った父は無表情で何も読み取れない。漆黒の瞳の奥で蝋燭の赤い炎が揺らめていていた。菊丸は父への畏怖の念を隠すようにぴんと背筋を伸ばした。
「……呼びましたか、父上。」
「なんでも近頃、掟を破って、人里に下りているらしいではないか。」
菊丸は無意識に右の親指と人差し指を擦り合わせ、視線を泳がす。
「それは……スズのことが心配で……友達なんです。」
「その上、盗み聞きとは隅に置けんな。」
「……申し訳ございません。でも、彼女の命だけは助けてください! 殺さなくとも他に方法があるはずです!」
菊壱は盛大に息を吐いた。
「お前さんの素行の悪さはそれが原因か。聞いていただろう、この件は山神様の一存に委ねられた。なら我々はそれに従うのみだ。」
「そんな!」
「菊丸よ、これ以上お前さんにちょこまかされると困るのだ。あの娘と仲が良いのは知らなんだが、山神様が関わられる以上、勝手なことは止して、お前さんには次期頭首としての立ち振る舞いを期待している。」
「スズを棄ておくことはできません!」
「なら、解らせるまでだな。」菊壱は、一層低い声で言い放った。
「……っ!」
菊丸は咄嗟に踵を返し、しかし廊下で待ち構えていた近衛兵に襟元を掴まれた。待ち構えている先を、菊丸は知っている。幼い頃、叱られた際にはいつも閉じ込められていた離れの納屋だ。埃臭さと耳鳴りがするほどの静寂が幼い菊丸の身体を侵食し、恐怖と心細さで泣きながら眠った。そのせいか、今でもあの納屋からはなるべく目を背けていた。今回は一晩なんて生易しいものではないだろう、三日三晩、あるいはそれ以上か。幼い菊丸が心のなかで嗚咽を漏らす。そして同時に、こんな状況でもスズの姿が頭を離れない。菊丸は強引に納屋に放り入れられ、外側から鍵をかけられる音を聞いた。
格子窓からほんのりと月明りが入ってきて、光の筋を横切る土埃の粒子が星を砕いたように輝いている。幼き日の彼が手を伸ばしても、窓には届かなかった。「けれど今は。」と、菊丸は高く飛び跳ねると、思った通り、格子に手を掴むことが出来た。しかし、触れた瞬間に稲妻のような痺れが全身を襲って床に叩きつけられる。菊壱が張った結界であった。
「くそっ! くそっ! ここから出せよ!」
叫んでみても、声は納屋に跳ね返るばかりである。何度も、何度も、格子を掴んで強く引っ張った。その度に手は火傷を負ったように赤くなり、切り傷が出来た。激痛に指が動かせなくなって、代わりに妖術をぶつけてみても格子はびくともしない。無機質のそれは彼を薄ら嗤っているようにすら思える。非常に腹立たしくなって、菊丸は獣のように雄叫びを上げた。
◆
夜、スズは毎晩と言っても良い程に居なくなる。それに気が付くのはスズがわずかに立てる足音だったり、途中で覚醒して目を向けた布団がもぬけの殻だったりする。今夜は後者だった。いつもなら五分しないうちに戻ってくるのだが、今夜はなかなか戻って来ないので、改汰は心配になって探しに行くことにした。時計は午前一時をさしている。廊下に出ると外気はいっそう冷え、改汰は身震いした。彼女は案外すぐに見つかり、縁側に端居して月を見上げていた。潤った双眸は、半分に割れた月をふたつ宿している。白風に似た空気の流れがスズの髪飾りを控えめに鳴らし、風鈴の音によく似ていた。スズは、あの髪飾りを滅多なことで取りたがらない。きっと大切な人から貰ったものなのだろう。鈴が傷まないように、布団に入る前には必ず手ぬぐいで拭いているのを見る。そしてその音を聞くと、改汰は時折、胸の底から湧き出る黒い靄のようなもの、それから白い光、擦り切れたフィルム、小さな影。そういったものが瞬時にして彼の全身を覆うような感覚を覚えた。
「風邪引くぞ。」
声をかけられて我に戻ったスズが、びくりと肩を揺らして改汰のほうを向いた。そして正体を確認すると、一気に身体を脱力させた。
「びっくりしたー! 改汰かあ! わざわざ来てくれたの?」
「起きたら居ないと割と心配になるんだぞ。」
「ごめんね。眠れなくて涼んでただけなの。心配しないで、改汰は先に戻ってて良いよ。」
そうは言っても。涼むにしては肌寒い日である。スズは上には何も羽織らず、初日に美恋から借りたキャミソールを着ているのみであった。骨ばった華奢な肩は無防備に外気に当てられ、それでは見ているこっちまで寒い。改汰は部屋に戻り、タオルケットを手にした。繊維の表面は、未だ微かに体温を残している。
再度縁側に戻ると、スズは心細そうな顔をしており、しかし改汰の姿を捉えて破顔した。
「あ。本当に戻っちゃったのかと思った。戻って良いって言ったのは私なのに。へんだよね、えへへ。」
「寒そうだなと思って。スズにまで風邪を引かれたらおれが何言われるか分からないよ。」
スズの肩にそっとタオルケットを被せてやると、彼女が無邪気に「一緒に入ろう?」と言ってくる。改汰は慌てふためき、思わず拒否して、スズがしょんぼりと顔を俯けた。それに申し訳なさを感じ、改汰は意を決して同じ空間に飛び込む。スズの細い肩と、改汰の日焼けしない腕が、直に触れあった。それから二人は真夜中の星涼しの下で、取り留めのない会話をぽつりぽつりとした。スズが笑うたび身体が揺れる様子が腕に伝わり、それが心地良い。時々無意識に指と指が掠め、しかし自然と受け入れることができた。そうしているうちにスズがうとうととし始めて、ついには改汰の身体に凭れかかる。
「寝るなら部屋に、」
「あのね、このあいだ、言い損ねちゃったことだけど。」
スズは声を掠れさせて言った。焦点がぼんやりとしている。もう半分寝ているのだろう。
「改汰が何のために生まれてきたのかはわからないけど、何になっても、どんなことをしても、本質は変わらない。改汰は、あの時のまま……優しくて、温かい。改汰は改汰だよ。」
「……聞かせてよ。おれたち、どこで会ったんだ?」
スズは微笑んで、首を横に振った。そしてゆっくりと瞼を閉じ、穏やかに寝息を立て始める。また聞けなかった。改汰は小さく溜め息を吐いた。しかしもう知らなくて良い気がした。スズと一緒にいると偽らない自分でいられる。流行りの音楽に無理に共感することも、同級生たちと話を合わせるために興味のないバラエティ番組を見ることもしなくて良い。ただ胸の真ん中に灯る熱に心を傾けていればスズも笑い返してくれる。今はそれが救いだ。
「スズだって温かいよ……。」
改汰は聞こえていないスズに向かって呟いた。
◆
この気持ちに名前が付いた日、嘘を吐き続けようと決めた。
この狭い狐塚(さと)では皆が友であり、家族同然であった。だからどの世代も、学び舎に通い始める頃には、教室には既に見知った仲間しかいないのが常である。しかし菊丸だけは違った。彼は黒狐の一族で、それまでは人生のほとんどを屋敷で過ごし、同い年の子ども達は学び舎で初めて彼の姿を目にすることとなった。それは豆千代やスズも同様であった。菊丸は学力も妖術も他の生徒より秀でており、その不愛想な性格も相俟って周りの生徒たちはすぐに距離を置き始めた。気の弱い豆千代も菊丸に苦手意識を持っていた。しかしスズが持ち前の明るさで菊丸に声をかけ続け『三人組』が出来上がるのはそう遅くはなかった。そして近くで菊丸という人物を知っていくうちに、豆千代は心のなかで芽生えた『季節』を自覚した。同時に、菊丸が見る先にはいつもスズがいることも。
いつも通り学び舎に入ると、古い木材の匂いがむわっと立ち込めた。規則的に並んだ窓はすべて全開になっており、朝の風が気持ちよく吹き抜けて、豆千代の三つ編みを揺らす。教室に入るといつも窓際で本を読む菊丸の姿が見えず、先日から続くスズの失踪騒ぎもあって、既に噂好きの同級生らの話題の餌食になっていた。
「スズが消えたのと関係あるに決まってるよ!」
「ねえ豆千代、なにか知らない!?」
同級生に尋ねられて豆千代は首を大きく横に振った。それからやれ駆け落ちだの人間に捕まっただのと根も葉もない憶測が飛び出すので、到底聞いていられず教室から出ようとした瞬間、先生が入ってきた。
「えー、菊丸君はお家の事情でしばらく来れないそうです。菊丸君は元気らしいので、要らぬ心配はしないよう。さて、授業を始めます。」
嫌な予感がした。先生の淡々とした語りはまったく頭に入らない。
なにぶん、スズが失踪してから五日が経っている。『花』の犯人がスズだと判り、大人たちが彼女を捕らえようとしているのは想像するに容易い。加えて菊丸が『家の事情で』学校を休んだ。だとすれば、彼が軟禁されているのではないかと考えるのが自然だろう。閉じ込められているだけなら良いが、無事だろうか。不安が募るばかりである。「いずれにせよ、どうにかしなければ。」と、豆千代は思った。しかし泣き虫で臆病であるこんな自分が単身で狐塚(さと)の長の屋敷に忍び込み、菊丸を助け出すなんて無理な話だとも尻込みする。こういう時、スズの躊躇なく行動する勇気や菊丸のような頭脳と妖力があれば――そういうふうに、豆千代はいつだって憧れてきた。十年前、初めて菊丸に声を掛けた時もスズの後ろに隠れていた。この矮小な身体と性格をからかってきた同級生たちを口達者に返り討ちにしたのは菊丸だった。自分は彼らになにもしてあげられていない、でもこんな自分ができることなんて……ずっと、罪悪感のように付き纏ってきた感情は、この期に及んでも変わることはない。しかし誰かの助けを待つことは絶望的だということも分かっていた。
豆千代は窓際の席に視線を向ける。いつも姿勢良く座り、真剣に黒板の文字を書き写す菊丸が、今日は居ない。教科書の端に小さく落書きをする隣の席のスズは、今日も居ない。自分だけが何も変わらずにここに座っている。寂しいという気持ちだけが沸々と湧き上がり、開け放たれた窓から差し込む真夏の陽や、不協和音の蝉の鳴き声がひどく虚しい。この夏は鮎を獲りに行こうと約束したがあれは果たせるのだろうかと、豆千代はぼんやりと考えた。
授業の内容が頭に入らず、気持ちが落ち着かないままその日の学業は終えた。陽が西に落ちる頃、ひぐらしの鳴き声がほうぼうから聞こえる帰路につき、自身の長い影を追いかけて、気が付けば家の前であった。顔を上げると、弟の福千賀(ふくちか)が何やらしょいこを背負い、虫取り網を手にして勝手口から出ていく様子を目撃した。
「福千賀? どこに行くの?」
忍び足で家を離れようとしていた福千賀がギクリと身体を硬直させたので、豆千代は首を傾げた。
「ね、姉ちゃん……!」
「もうすぐご飯でしょ? それにそろそろ日が暮れるから、遊びに行くなら明日にしなさい。」
「う、うぅ……。でも、友達と約束したんだ……鬼火捕りをするって。」
「鬼火?」豆千代は眉を寄せた。「この辺にはあまり出ないはずよ?」
「それがさぁ!」福千賀は一変して目を輝かせた。
「ここ数日、渓谷で鬼火が飛んでるんだってさ! それも一匹や二匹じゃない、何十匹も!」
おかしな話であった。豆千代も鬼火は過去に何度か見たことはあるが、大抵は一匹が漂っているだけである。虫取り網で捕まえて、竹で編んだ蓋付きのしょいこに入れて持ち帰る。そうすると一晩は宙で燃え続け、青の炎が納涼になるのであった。大方、何十匹も捕まえてきて家のなかで放つつもりだったのだろう。良くも悪くも、驚かせるのが好きな弟なのだ。
瞬間、豆千代は不意に閃く。これを使って菊丸を助けられるかもしれない。
「な~姉ちゃん行かせてくれよ~! お願いだよ~!」
「分かった。その代わり、わたしも連れて行って。」
「……へ?」
予想だにしていない返答だったのだろう、福千賀は間抜けな声をあげた。
狐塚(さと)から幾らか離れたその渓谷は、もっぱら子ども達の遊び場である。強い朱の太陽は西の底へと落下し、水彩で描いたような金糸雀色の月が後を追う。福千賀の友人三人はしっかりと虫取り網としょいこ、手には松明を持って現れた。豆千代の存在に幾分か驚いたようであったが、豆千代は、福千賀とその友人らに包み隠さず理由を話した。彼女の話を聞いていた彼らは、何か面白いことが起きそうだという顔つきで「手伝わせてほしい。」と名乗りを上げた。
「でも……危ない目に遭うかもしれないし……。」
「大丈夫だって! その時は皆で助け合えばいいんだし。それにスズ姉ちゃんが死ぬかもしれないっていうのにじっとなんかしてられないよ!」
福千賀の言うことも尤もだ。今は他に手段を選んでいられない。なにより福千賀にとってはスズも『お姉ちゃん』なのだ。友人たちだってスズや菊丸と遊んでもらったことがある。皆、助けたいという気持ちは一緒なのだろう。実際、彼らからは幼いなりの覚悟がうかがえた。だから後ろ髪を引かれる思いは無理やり振り切って、素直に助けを借りることにした。そんなわけで、ただの鬼火捕りは『菊丸ひいてはスズ救出作戦』の大義名分を得たので殊更気合が入るものになった。
松明の灯りで闇をこじ開け、木々のあいだを進み続けて川に出る。広がる光景に、彼らは思わず目を見張った。
「すっげ……。」「まじでいっぱいじゃん!」
大きさや色がまだらな鬼火が群れを成して、あちこちに漂っている。水面には青い炎が反射して瑠璃色の明るい闇夜を作り出していた。豆千代はどこか恐ろしささえ覚えたが、弟たちは日常離れしたそれに興奮するばかりである。
「よっし行くぞー!」「おー!」
「あ、待って……!」
彼らは駆け出し、豆千代は急いで後を追った。彼女は虫取りや鬼火捕りのたぐいが昔から得意ではなかった。実際、鬼火は行動こそゆったりとしているが、豆千代が不器用に振り上げた虫取り網をひらりとかわしてみせる。それでも弟たちのほうがうわてであったので、豆千代がもたついている間にもみるみるうちにしょいこの中がいっぱいになっていった。その様子に「彼らが居てくれて助かった。」と、豆千代は心から感謝した。ひとりで悩んでいた時間が無駄だったとさえ思う。そういえば、スズが豆千代たちの家を出て行くと決めた時、彼女と小競り合いになったことがあった。
――スズちゃん、わたしたちに相談なしに何でもひとりで決めて、少しくらい相談して欲しかった……!
かつてスズにぶつけた言葉だ。スズは困ったように「ごめんね、千代ちゃん。」と返すだけだった。もう決めたことは仕方がないとスズが出て行った後も相変わらず仲の良いままだが、スズに感情的になったのは後にも先にもあの一件のみだ。「自分も人の後ろについてまわるだけの臆病者なくせして肝心なところで頼れないのだから、似た者同士だなあ。」と、豆千代は心のうちで己を皮肉った。
しょいこの中が鬼火で満杯になったらしく、「そろそろ切り上げよう!」と弟らの声がした。豆千代が顔を上げた瞬間、なにか音を捉えた。キーンと、耳鳴りのような、あるいは鉄を引っ掻いたような、塞ぎたくなるそれに嫌な予感がする。それは福千賀や友人らも同じ音を聞いたようで、一斉に同じ方向に目を遣った。川の向こう、闇夜より深い影が輪郭を象って、赤い双眸が彼らをじっと見ていた。
「ひっ……!?」「おい、逃げるぞ! 悪妖だ!」
「へ!? この辺りに悪妖が出たなんて話、聞いたことないぞ!」
その影は鷲のような形を成し、キィキィと鳴いていた。「山を守る結界が弱まっているんだ……。」と、誰かが言った。鬼火が大量発生し、悪妖が出たのも、スズが『花』を食べた影響らしい。掟を破ることの罪深さに、豆千代は身を震わせる。そして「今はどうにかして無事に弟たちを逃がさなければ。」と考えた。豆千代は深呼吸をしてから口を開いた。
「……福千賀、皆を連れて狐塚(さと)まで走って。」
「ね、姉ちゃん……?」
「わたしはコレを引き付けるから。」
「無理だよ! 姉ちゃん、死んじゃうよ!」
「大丈夫! 皆に何かあったら、わたし怒られちゃう。」
福千賀は涙ぐんでいた。泣き虫なのは姉弟一緒だ。豆千代も隠せないほどに手足が震えていた。しかし泣いてはいられまいと、歯を食いしばり地に足を押し付けた。
「だからお願いね。門の前で待ってて?」
精一杯の笑顔をつくってみせる。福千賀は泣きそうなまま友人らを引き連れて森林のなかへと消えていった。それに反応して悪妖が追いかけようとするが、豆千代が投げた石が当たり、赤い目はすぐに彼女を睨んだ。
そうして、しばしの間があった。豆千代はソレが動くのを待っていた。
豆千代に目掛けて俊敏に飛びかかってくるのと、豆千代が突風を起こすのはほとんど同時であった。砂塵と小石が吹きあがる。悪妖がよろめいて、次にソレが豆千代に目を向けた時には、彼女の皮膚は蜂蜜色の毛に覆われ、四本の脚で立っていた。そして背を向けて一気に走り出した。
幼い頃から走り回っている山だ。木々の高さや坂の傾き、土の硬さ、それらひとつひとつを感覚として覚えている。だから豆千代は速度を落とすことなく器用に小川を渡り、木の根を飛び越え、昼間と変わらぬ様子で駆けた。山を駆け抜ける時、山と身体が一体になる感覚が心地良かった。そして今、背後に悪妖の気配を感じ、命の危機に直面していても、その気持ち良さは変わらずに豆千代の体内を満たす。豆千代の小さな身体はどんどん加速していく。
低木がつくる茂みを見つけると、豆千代は身を滑り込ませて、じっと息を潜めた。悪妖は豆千代を見失い、羽ばたく音が遠くなる。巻いただろうか……そう一息ついた時、
「オォーイ、助けてぇ。」
と、雑木林の向こう、闇の奥から声がして、豆千代はごくりと唾をのんだ。それは福千賀の声であった。まさか、逃げ遅れたのだろうか。だとすれば助けに行かなければ。豆千代は冷や汗をかき、そちらに向かおうとして、
「オォーイ、助けてぇ。」
もう一度、インコのように繰り返すそれに違和感を覚えて前足を引っ込める。「あれは悪妖が獲物(わたし)を引き付けるために声を模倣しているのではないか。」と訝しむ。反面「本当に福千賀だったらどうしよう。」と、豆千代は焦りと恐怖のなかで判断を下さなければならなかった。豆千代は目を閉じて、乱れた呼吸を整えた。
「……福千賀なら大丈夫、きっと逃げ切ってる……。」
彼は賢い子だ。約束通り真っ直ぐ門に向かって、自分を待っているに違いない。そう自身に言い聞かせて、けれどもやはり拭いきれない不安を抱えたまま、枝々を掻い潜って狐塚(さと)の門へと歩を進めた。そのあいだも、闇の向こう側で「オォーイ、助けてぇ。」と、同じ声、同じ言葉が幾度も繰り返されるのを耳にした。
門の前では福千賀と友人らが落ち着かない様子で豆千代の帰りを待っていた。枝葉をひっつけた狐姿の彼女の姿を見つけると、福千賀たちは小走りで寄ってきて、再会を喜んだ。豆千代はほっとして、元の姿に戻ると箍が外れたように大泣きし、彼らもつられて鼻水を啜り始め、気が済むまで皆でわんわん泣いていた。
◆
「こんな忙しい時期にごめんね。」
美恋が鼻をずずっと啜りながら嗄れ声で謝った。敷かれた布団の横では、改汰が差し入れた林檎が兎の姿をして、皿の上に居座っている。
「いいって。スズもいてくれるし。美恋は治すことだけ考えて。」
「スズちゃんは元気? あの子、時々無理して明るく振舞ってるのわかるからさ。気にしてやってね。」
「そうだな……。」
改汰は頷く。あれからスズはぼうっとすることが増えた。表情を盗み見ると、計り知れない暗い影を落とし、改汰は度々ぞっとする。何かを覚悟しているのか、諦めているのか、またはまったく別なのか、真意が掴めない。スズがスズではないような気がして声をかけるたび、ぱっと笑顔を向けるがまた引っ掛かりをつくった。
「……そういえば寝込んでる美恋にこんな話するのもどうかと思うけど。朝からちょっとおかしなことが立て続けに起きてて、」
「おかしなこと?」美恋が首を傾げた。
「今朝から祭の準備してるだろ? スズと叔母さんと近所の人が台所で料理してたら、突然ひとりでにみそ汁の鍋が倒れて、叔母さんが火傷しそうになったらしいんだ。」
「お母さん、大丈夫なの!?」
「うん、どこも怪我はないって。それと外でテントを組み立てようとしたら強風が吹いて、手伝いに来てくれてた別のご近所さんが下敷きになってさ。幸い、布の下だったから大した怪我にはならなかったけど、少し間違えば大事故だった。」
「そう……なんだか不吉ね……。」
美恋が両腕で自身の肩を抱きしめた。改汰は考える。スズがこの家に来てから違和感のようなものをずっと感じていた。そしてそれは日に日に強くなるのだ。
「スズは……どこからやってきたんだろう?」
どこからかやってきた身元不明の少女。自身を『スズ』と名乗り、本名も年齢も分からない。時々ふらっと姿を消して、最初から居なかったのではないかと不安を駆り立てる。
「さあ? 遠いところからかもね。いつかスズちゃんから話してくれるわよきっと。そんな気がするの。あの子、まじめだし良い子だから。」
美恋が改汰の肩をばしっと叩き、続ける。
「信じてやりなさいな。ちょっと悔しいけど、スズちゃんが一番心を許してるのはあんたなんだから! あんたがスズちゃんを疑ってどうすんの!」
「疑ってないけど、さあ……。」
林檎の兎が一匹、美恋の口に入る。
「信じ続けなさい。何があっても。ありのままの彼女を見て、受け止めるの。そのためにはスズちゃんを知ってあげなさい。それが愛よ。」
「……誰の言葉?」改汰は呆れ顔で尋ねる。
「あたしにも『イイ人』くらい居るのよっ!」美恋が悪戯っぽく笑った。
祖父が先日から続く流行り病と今朝のトラブルのお祓いをするからと、美恋を除く親族とスズが拝殿に呼ばれた。祭の前だというのに、拝殿に揃った親族たちの空気が重い。「何か悪いことが起こりそうだ。今年の祭は中止したほうが良いのではないか。」との声も上がったが、鎮魂と厄払いを祈願し神様を祀る、重要な伝統行事である。そしてなにより近隣の住民が楽しみにしているので、予定通りに慣行したいのは野上家全員の意見であった。
「スズちゃんと改汰は何もない?」隣に座る美恋の母が尋ねた。
「おれは特に。」
「私も……あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。スズちゃんが腕を引っ張ってくれて間一髪だったから。ありがとね。」
そして祈祷が行われ、空が淡い藍色に沈む頃、宵宮祭が始まった。屋台や提灯が連なって、鮮やかな朱が目に痛い。今晩から明後日の朝まで人の声や祭囃子がひっきりなしに聞こえるのである。
「本来は神様をお迎えする儀式だったらしいが、今となっては単なる前夜祭だよ。あー、腹減った……。」
隣を歩いていた美恋の父が大きく欠伸をしながら零す。本当にこの人が次の神主候補で大丈夫なのだろうかと、少し心配になる。美恋の父は長年建設業で働いているからか体格が良く、祖父の跡を継ぐのはなにやら想像しがたい。東京で細々とパン屋を営む自分の父のほうが、見てくれだけで言えば『似合う』のだ。
それでも一応は跡継ぎ候補だ。改汰は常々疑問に思っていたことを尋ねてみることにした。
「伯父さん、ここが拝殿ってことはお願い事するとこだろ? ご先祖様ってどこに祀ってるんだ? 上にもそれらしき建物ないし……。」
「なんだあ、改汰知らないのか? ここの御神体は湖で、本殿はない。湖にはご先祖様が眠っているんだ。んで、ご先祖様を御神体とした。だからあの湖はどんな穢れをも落とす神聖な場所って言われてるらしい。」
「湖って、あの階段上の?」改汰は目を丸くする。
「そう。」
「ご先祖様ってあの屏風の人だよな……? 眠ってるって、沈めたってこと?」
「そうらしい。」
「知らなかった。あそこってそんな凄いとこだったんだ……。」
「まあ、俺も詳しいことは分からんがな!」
親指を立てて自信満々に言い切る。この人が次の神主候補で大丈夫なのだろうかと再度心配になっていると、美恋の父が「なあ、」と改汰の右肩を叩いた。
「そういえば、さっきからスズちゃんの姿が見えないけどいいのか?」
◆
光の粒子が闇に追われて薄らいでいた。ずっしりと根を下した並木の中央を、所々欠けた古い石階段が山頂に向かって伸びている。それをスズは一心不乱に上った。その先にこの声の主が待っているのが分かる。息があがって苦しくなっても、階段は終わりを見せてはくれなかった。木々の隙間から下の村の灯りが垣間見える頃、緩やかな勾配は追い打ちをかけるように急勾配になり、スズの脚が震えた。最後の一段をのぼりきって膝から崩れ落ちた時、いつの間にか重くなっている自身の身体に気が付いた。心なしか腹の黒い痣が鈍く痛んだ気がした。
息を整えて、顔を上げる。そこに広がるのは静謐に佇む瑠璃色の湖であった。空が少しずつ色落ちし、永い時をかけて溜め込んだようなその深い色に思わず息を呑んだ。
「鈴渚。」
拝殿からずっと響いていた声が、すぐ横で耳をくすぐった。
「其方が食べた『花』は、山でもっとも強い霊力の塊だった。妖たちは霊力のある所に移動する。其方が『花』を食べたことで其方に強い力が宿り、妖たちはその力に当てられ村に降りてきてしまった。そして山の均衡が崩れてしまった。」
「……あなたが山神様ですか?」
「いかにも。」
尾が九つに割れた白い狐が遠くでスズを鋭く見つめている。姿を見るのは初めてであった。山神は午后の強い陽射しを宿したように輪郭がぼやけていて、質量を感じさせない。実際、山神が後ろ脚を蹴ると軽々と浮いて見せ、風に乗って歩いているようであった。近付く山神に、スズが目を細める。
「それが邪悪な力だということに、もう気が付いているだろう。その『花』が其方の体を完全に蝕む時、其方は古の化け物となろう。そして自我を失い、その身が滅ぶまで暴れ続け、大切なものも失うことになるだろう。」
「私が犯した罪の重大さは理解しているつもりです。どうすれば良いか教えてください。せめて私の大切なものを守るために……。」
もう逃げられない。砂時計は落ちて、影法師は踏まれて、祭は終わる。沙羅の花が落ちて泥濘でぐちゃぐちゃに汚れてしまう、そんな映像がゆっくりと脳裏に浮かびあがる。背筋を芋虫が這いつくばるような、腐った果実を食わされたような、とにかく身も心も不快感で支配された。両親も、最期はこんな気持ちだったのだろうか。
「共に来い。明日、迎えに行く。」
山神のそれに、感情は掬えなかった。
生きた心地がしないまま階段を降りきると、汗で濡れた改汰が表情を引き攣らせて立っていた。
「スズ!」
「あ、あらた……。」彼の形相にスズは思わず後ずさる。
「勝手に、どっかに行くなよ!」
改汰の肩は震えていた。それはまるで幼い迷い子で、申し訳ない気持ちが沸々と湧いて出た。こんなにも想ってくれる彼にどうお別れするのが正解なのか、今は分からない。ここまで来て、思いのほか満たされて、忘れたいと言ったら勝手だろう。――ちがう、勝手なのは改汰だ。
「……先に私を置いていったのはあなたのほうなのに。」
だから、ここまで来たのに。
「え?」
「あ……。」
改汰が聞こえなかったのを良いことに、スズは考えを振り切った。優しい彼にもう一度逢いたくて掟を破ったのは自分のわがままだ。改汰は何も知らない、悪くない。だから一度深く俯いて、強張った頬を緩めた。
「ううん! 迎えに来てくれて嬉しいな、って!」
今はうまく笑えていることだけを、スズは祈った。
もう一度あなたの手に触れられるのなら、全てを捨てても良いと思ったの。
◆
「よーし、おさらいだ! オイラたちが一斉に鬼火を離して守衛を引き付ける。恐らく中にいる見回りも呼ぶから、あとは警備が手薄になったところをどさくさに紛れて姉ちゃんが屋敷に忍び込んで菊丸兄ちゃんを探し出す! で、オイラたちは姉ちゃんが出てくるまで隠れて待機! 簡単だろ?」
屋敷から少し離れた茂みの奥で福千賀が見取り図を広げ、友人らと豆千代が囲い込んでいた。四角い外壁、門の場所、(間取りは一切描かれていない)屋敷が描かれた簡易的なものである。灯りがなくとも夜空の光で紙が青白く浮かび上がる。
「万一、半刻経っても姉ちゃんが帰って来なかったら作戦失敗。そん時はオイラたちが姉ちゃんを助け出すために乗り込むからな!」
「う、うん……そうならないように頑張る!」
豆千代は自身を奮い立たせるように拳を強く握る。幸いなことに一度だけ屋敷の敷居を跨いだ経験があった。五年ほど前に菊丸がひどい風邪を引き、スズと見舞いに訪ねたのだ。だから菊丸の部屋の場所だけはおぼろげに覚えている。まずは彼の部屋に向かうつもりで、その記憶を何度も反芻して、頭の中で道順を確認した。
そうして『菊丸奪還作戦』が始まった。守衛は門の脇に二人立っていて、初老の男と若い男だった。まずは一匹鬼火を放って、彼らは聞き耳を立てた。
「せんぱぁい、また鬼火ですよ。」若い男からは緊張の欠片も感じられない。
「放っておけ。じきに消える。」初老の男は遠くを見たまま返した。
「最近多くないですか。特に『花』泥棒捜しが始まって以来、狐塚(さと)の中にまで入り込む下級妖怪をよく見るようになって……。カミさんが言うには、なんでも近くで悪妖らしきものが出たとか。そのうちここらもやられちまうのかなあ。」
「おい、滅多なことを言うもんじゃないぞ。我らには山神様の御力と黒狐一族の妖術がある。いざとなれば菊壱様が結界を張ってくださる。」
福千賀が目配せをして、豆千代たちはすべてのしょいこを一気に開け放った。何十もの鬼火が蛍のように宙を舞い、蒼い影を作り出す。
「せんぱぁい、また鬼火ですよ……に、さん、し……え?」
「お、おい! 半鐘を鳴らせ! 鬼火だー! 鬼火が大量発生したぞー!」
初老の男が叫んだ瞬間、門前の半鐘がけたたましく響いた。奥から幾重もの足音が近付き、福千賀が「今だ!」と叫んだ。
「姉ちゃん、行って!」
「うん!」
狐姿の豆千代が俊足で門へと駆け抜ける。兵たちは鬼火を振り払うのに必死で、豆千代に注意を払う者は滑稽なほどに居なかった。すんなりと侵入を許した屋敷には人の気配がなく、正面突破は予想よりもずっと容易かったので、豆千代は訝しみながら進んだ。広く薄暗い廊下を渡り、東の階段を上るとすぐに記憶にある通りの菊丸の部屋が見えた。襖には菊が三輪、天に伸びる様子が墨絵で描かれているので、間違いようがない。豆千代は迷うことなく飛び込んだ。
そこに佇んでいたのは菊壱であった。菊壱は腕を組んで物憂げな様子で豆千代を見た。
「……どこの悪戯妖怪かと思えば、豆千代か。」
辺りを見渡しても菊丸らしき姿は見つけられなかった。
「菊丸くんは……どこですか。」
「菊丸もお前さんも熱心だな。あの娘のことは我ら一族が結界を張って封じることになった。お前さんたちに出来ることはもはや何もない。悪いことは言わぬ、諦めなさい。菊丸にもそう話している。」
菊丸はこの話を飲み込まなかったのだろう。そしてどこかに閉じ込められたのだと安易に想像出来る。
「スズちゃんも菊丸くんも見棄てることは出来ません!」
「二人揃って同じことを……。なぜそんなにもあの娘を助けたがる? お前さんたちが掟を破っているのは知っている。これ以上加担するなら罪人扱いになるぞ。」
『罪人』という言葉に豆千代は息を呑んだ。規範を守って生きてきた豆千代にとって最も縁遠いものであった。そして今、そこに片足を入れようとしている。家族のことを考えれば大人しく引き下がりたい気持ちだ。「それでも。」と、豆千代は拳に力を入れて、まっすぐ前を向いた。
「スズちゃんも菊丸くんも大切な友達だから……友達で、家族だから。菊壱様も、もし菊丸くんがスズちゃんと同じことをすれば助けたいと思うでしょう? 会って叱りたいと思うでしょう? わたしも菊丸くんも、スズちゃんにもう一度会いたいんです。」
菊壱は厳しい表情をしながらも、なにか考えた様子を見せて長い溜め息を吐く。その姿に「似ている、」と思った。諦めているような目元の奥で、ぎらぎらとした野心が燃え盛っている。菊壱を見ていると、まるで未来の菊丸がそこに居るようだ。菊壱が懐からなにかを取り出して放り投げて、豆千代は慌ててそれを宙で掴んだ。手のひらを開いて出てきたのは、銅でつくられた古い鍵であった。
「……菊丸は裏の納屋に居る。後は好きにしろ。」
菊壱はそれだけを残し、部屋を出て行った。鳴り続けていた半鐘はぴたりと止まり、豆千代は屋敷裏の納屋に急いだ。
納屋の扉を開けると、土の匂いが鼻孔をくすぐった。片隅に黒い影が見える。豆千代が近付くと、彼はのっそりと俯いた顔を上げた。
「ちちうえ……? 豆千代!?」
虚ろな影が消え、ただただ目を丸くするばかりである。
「おま……どうして!?」
「菊壱様にお願いして鍵をもらったの。」
「父上に!? あの人がそんなことするはずがない!」
豆千代は首を横に振る。そして言い聞かせるように、ゆっくりと口を開く。
「勘違いしちゃダメ。これはきっと菊丸くんへの試練なの。菊壱様は本気でスズちゃんを殺すつもりだよ。だから、絶対にスズちゃんを助けよう。二人で一緒にね。」
菊丸はきょとんとしたまま豆千代の話を聞いており、本当に頭に入っているのか分からない。硬直しているという表現が似合っていた。豆千代は心配になって、菊丸の顔の前で手をひらひらとさせた。すると彼の表情が崩れ、たちまち神妙な面持ちになる。
「……豆千代、変わったな。」
豆千代は思わず「えぇっ!?」と素っ頓狂な声を上げる。
「それってどういう意味……?」
「あ。やっぱり変わってないかも。」
「ええええええっ!?」
狼狽える豆千代が面白かったようで、菊丸がくすくすと笑い出す。からかわれているのに気が付き、豆千代の白い頬に薔薇色が差した。
「悪い、悪い。正直、豆千代が来るなんて思いも寄らなかったんだ。なるほどな、あの半鐘の音は豆千代の仕業だったってわけか。」
「わたしだけじゃない、福千賀たちが手伝ってくれたの。皆もスズちゃんが帰ってくるのを待ってるんだよ。」
「そうか。なら早くここから出て次への作戦会議といこうか。今まで掴んだ情報、全部話すよ。」
「わたしも……! 菊丸くんが居ないこの数日間、いろんなことがあったの!」
そう言って、菊丸に手を差し出した。菊丸は一瞬驚いた表情をして、しかし素直に豆千代の手を取る。彼の手は埃に塗れ、無数の擦り傷が痛々しい。納屋を出ようとして、菊丸が豆千代を呼ぶ。豆千代は彼の言葉を待ってまじまじと見つめ、首を傾げた。菊丸は頬を掻きながら照れくさそうに
「あ、ありがとな……。」
と、小さく言った。それは豆千代の耳に届き、返事の代わりにひとつ頷いた。菊丸がスズしか見えていないように、スズには『彼』しか見えていない。その不毛な恋物語を、豆千代はほんの少しだけ憐れに思った。同時に、そこに入る隙はないのだと痛々しいほどに突きつけられる。だから早くなる鼓動は緊張で、この感情は憧れなのだ。豆千代は己に言い聞かせた。
◆
明くる日の薄暮に、改汰は玄関の上がり框に腰をかけて彼女らを待った。外からは昼間よりは幾分か落ち着いた蝉の鳴き声と、祭囃子が絶え間なく聞こえてくる。戸は開けっ放しになっていて、屋台から漂ってくる焼きそばやビールの匂いが非日常を彩った。炎天下に屋台の手伝いをして持たせてもらえる焼きそばが好きなのだが、今年の焼きそばは味がしなかった。それは改汰の気が別の方面に向いていて、彼はぐるぐる思考を巡らして、決意していたのである。
「じゃじゃーん!」
美恋の声がして振り返った。幾分か顔色が良くなったように見える。
「美恋、具合はどうなんだ?」
「おかげさまで、かなり良くなったよ。それよかほら。」
美恋の背に隠れていたスズが恥ずかしそうに前に出てきて、改汰の鼓動が大きく高鳴る。
「浴衣あったなーと思って引っ張り出して良かったわ! いや~この仕上がり、錦上花を添えるとはこのことね。」
濃紺の浴衣の上で、金赤の花が華々しく咲き、肌身離さない鈴は椿の髪飾りと一体となって髪を結いあげている。芳紀馨しい少女がそこに立っていた。
「ちょっと、なんとか言いなさいよ。」
「……えっ?」美恋に肩をぽんと叩かれ、我に返る。
「な~んかあるでしょ! 可愛いとか、色っぽいとか、似合ってるとか、色々! 女はね、素直に愛情表現してくれる男が好きなんだから!」
「だあああああっ!」
美恋が唇の端を上げた様子がどこか腹立たしい。おそらく美恋にはすべてお見通しなのだ。だから感謝しながらも、気恥ずかしさが勝って、改汰は背を向けた。
「もう行くぞ、スズっ!」
「う、うん! ありがとう、美恋。行ってきます!」
「行ってらっしゃい、ごゆっくり~!」
相変わらず秋めいた風が吹いていたが、境内はそれに負けじと活気で溢れていた。鮮やかな朱い灯りのなか、色彩の渦に巻き込まれて、笑い声にも溢れて、彼らはまず拝殿へと向かった。初めて二人でここを訪れた日。参拝の仕方が分からないと言ったのはたった数日前だ。それなのにスズの慣れた仕草に、もう長いこと一緒に居た気さえする。改汰は手を合わせて、強く願う。
――ご先祖様、お願いします。おれは今日、この気持ちをスズに伝えます。だからスズがずっと傍にいてくれるように力を貸してください。
それから二人は屋台を見てまわった。綿菓子を買い、射的で取れたのはキャラメル箱ひとつで、金魚掬いはスズが宝石でも見るように双眸を輝かせて泳ぎ回る姿を眺めている。改汰はその横顔に度々うっとりとした。人の声が継ぎ早に横を通り過ぎるさなか、お面屋の前で改汰は思わず足を止めた。そこには様々な模様の狐面がびっしりと並べられていて、その下には手持ちの風車が、細長の机一杯に置かれた発泡スチロールに安っぽく刺さっている。
「……狐。」改汰の胸がぎゅうっと締め付けられる。
「どうしたの?」
「おれ、むかし、子狐を助けたことがあるんだ。」
「……えっ?」
「でももう名前も覚えてないんだ。怪我したその子に赤いリボンに鈴をつけてあげてさ、丁度、スズがつけてるリボンみたいにね。ほんの少しの期間だけど一緒に遊んで、おもちが二匹居るみたいで楽しかったのは覚えてる。でもどうやって見つけて、どうやって別れたのかは忘れちゃった。」
記憶のページが自然と捲られるように自身の口から漏れ出る言葉に、改汰は戸惑った。今ならなんとなく分かった気がする。ずっとスズに感じていたざわめきは、あの子狐を重ねていたのだろう。もう覚えていないが、昔の自分はもっと子狐と一緒に居たかったのではないかと思った。
「改汰はもしもう一度、その子狐と会えたら、どうしたい? 何を伝えたい?」
「う~ん……きっともう大人の狐だろうけど、抱きしめて、撫でてやって、また遊びたいかな。もしかして子どもも居たりしてね。そしたらその子たちとも遊んで、それでもう怪我するなよって、立派に生きろよって。そう言ってあげたいかなあ。」
「そっか、うん。私も喜ぶと思う。」
スズが、改汰の右の手首を握った。改汰はそれを左手で解き、指を絡めて繋ぎなおす。スズの薄い手はひんやりと冷たい。
「……あの、スズ、えっと、」
「ちょっと散歩しよっか。人が少ないところに行きたいな。」
スズの睫毛は震えていた。改汰は頷いて、スズの薄紅を挿した唇が浅い弧を描いた。手を引かれたまま、屋台の並びを抜け、石階段を下って神社を出た。まるで授業中に学校を抜けるような緊張感がそこにはあった。提灯の朱い灯りが届かない場所に足を踏み入れる。それまで全方位から浴び続けていた群衆の声がだんだんと遠のいていく。口数少なく、気が付けば田園の畦道を歩いていた。
ドーン、と音が響いて、二人は振り返る。火の花が咲いて、ゆっくりと形を崩していった。継ぎ早に上がっていくそれらは、黒紅の空に絶え間なく一瞬の命を散らしていく。花火大会が始まったのだ。今宵は雲一つない夜空で、美しい曲線を描いた三日月がぽっかりと浮かんでいる。月の周りでは星々が闇に神話を描く。摩天楼が星を、月を、花火を隠すことない、東京よりもずっと広くて澄んだ空に、改汰は「綺麗だ、」と感嘆の吐息を漏らす。
いま、想いを伝えようと思った。
繋いだ手を強く握る。俯いたスズの頬は薔薇色をしているのに握り返される様子もなく、改汰はスズの様子になにか違和感を覚えた。代わりに、言葉が返ってくる。
「――私ね、夢みたいだった。改汰とまた一緒に居られて。だからね、後悔なんて全然してないんだよ。」
絡まる指を解き、小走りに改汰と距離を取った。浴衣の裾が金魚のヒレのように揺れて、スズが振り返る。その彼女を見た瞬間、改汰の背筋がぞくりとした。見慣れた笑顔をしているのに、この世の者ではないような、いつの間にか中身が違うものに入れ替わっているような。本能的に近付いてはいけない気がしたが、同時にスズがどこか遠くへ行ってしまう確信めいた予感がして、目が逸らせない。
「本当に、一生分の幸せだった! ありがとうね、改汰!」
「……約束してくれ。今度は絶対に東京の祭に行くって。スズに見せてあげたいんだ。」
「最後にひとつだけお願いさせて。」
「スズ!」改汰は腹の底から叫ぶ。
「あのね、私のこと、」
やめてくれ、聞きたくない。今すぐスズの口を塞いで、その先は言えないようにしてやりたい。血潮が全身で暴れだして、頭がくらくらする。
「忘れないでね。」
瞬間、どす黒い靄がスズを包んだ。改汰は思わず手を伸ばして、しかしスズは悲しそうな笑顔だけを見せてその手を取らない。靄は四肢を蝕み、腹を蝕み、彼女は影になる。突如、横から勢いよく何かが靄に飛びついたが、弾き飛ばされて地に叩き落された。靄はたちまちスズを浚って消え、残ったのは赤いリボンと鈴だけであった。その横には、弾き飛ばされた正体――黒い狐がぐったりと横たわっている。
「菊丸くん!」
蜂蜜色の髪に淡い桃色の着物姿の少女が駆けてきて、改汰はぎょっとした。少女の頭部には狐のような耳がついていて、尻尾が揺れていた。少女は黒い狐を優しく抱えると、改汰と目が合い、こう言った。
「スズちゃんを助けてください!」
家に案内して、黒い狐を介抱しながらこれまでの経緯を改汰は聞いていた。
スズは狐であること。目の前の少女は豆千代、黒い狐は菊丸という名で、スズとは幼馴染であること。山の掟のこと。この山一帯を守る山神様の『花』を食べて人間になったこと、このままだとスズは『花』を食べたせいで伝説にある悪妖になってしまうこと、そして山神様はスズを殺すつもりであること。
突拍子もない話だった。驚けば良いのか、疑えば良いのか、悲しめば良いのか。どう反応するのが正解なのか分からず、ひとまず改汰は先ほどから気になって仕方がないことを質問することにした。
「あの、ひとつ良いですか。」
「はい?」
「それ、本物ですか……?」
ぴくぴくと動く豆千代の耳と尾を指さすと、彼女は苦い顔をした。
「…………今の話、ちゃんと聞いてました?」
「いや、聞いてたけど。あまりにも現実離れしているというか、なんというか……。」
豆千代は膝に乗せた菊丸をひとつ撫でた。
「本来、人里ではこの姿を取ることはできないんです。狐塚(さと)から離れるほど妖力が弱まるから。でも菊丸くんならともかく、妖力が低いわたしですらこの姿を安定して取れている……それはつまり、この辺りにそれだけの妖力が満ちているということです。」
「じゃあその妖力の根源って……!?」
「スズちゃんに間違いないです。わたしたちは幾度か陰からスズちゃんの動向を追っていました。病に伏せる人が増えたり、急に寒くなったり、祭の準備で奇怪な現象が起こったり。その全部がスズちゃんの桁外れの妖力が暴走しているせいなの。」
「そんな……。」
狼狽える暇もむなしく「近寄るな、人間!」と、悲鳴のような声があがって、そちらを向く。黒い狐は姿を消し、端正な少年が改汰を見下ろしていた。豆千代と同じく、黒色の耳と尻尾を持っている。そして彼は今にも飛び掛かりそうな雰囲気を放って改汰を睨みつけていた。
「き、菊丸くんっ! 大丈夫、ここは安全だよ? それに、今はこんなところで争ってる場合じゃないと思うんだ……。」
語尾はほとんど消えていたが、豆千代の言葉は刺さったようであった。菊丸は居心地悪そうに座り込んだ。
「俺はお前が嫌いだ。」真っ直ぐに改汰の目を見て、菊丸が言った。
「初対面でそんなこと言われても……。」
「スズがこうなったのも全部お前のせいだ、人間! だいたいお前が、」
「もうっ! 菊丸くん、やめてってば! 今は三人でスズちゃんを救う手立てを考えないと!」
大声を出す気はなかったのだろう。豆千代は赤面して両手で口を押えた。改汰は「あークラスにひとりは居るよなあ、こういう子。」と、関係ないことを考える。そのせいか、彼女には妙に親近感を覚えるのだ。
「改汰さん、心当たりはないですか? この神社は古くからあるって聞いたけれど……。」
豆千代が声色を高めて尋ねてくるので、改汰は戸惑った。
「えっ!? いやいやいや! おれ、そういうの詳しくないし!」
「ほらな、こいつに聞いたって無駄なんだ。俺たちでなんとかするぞ。」
菊丸の見下すような態度に「むっっっかつく!」と、改汰は珍しく他人に腹を立てる。スズを助けたいのは彼らと同じだ。諦める気は毛頭ない。改汰は必死に頭を回転させる。その間も菊丸は文句を垂れていたが、無視した。
考えろ、野上神社、山、狐……伝説の悪妖……。
「伝説……悪妖……?」改汰の脳裏にあの屏風が過ぎった。
「……おれのご先祖様は神通力を使って厄災から村を救ったっていう伝説がある。」
「はあ?」
菊丸は眉を寄せて、なにか考えた素振りを見せる。それから、改汰に尋ねた。
「じゃあ仮にその伝説が百歩譲って本当だったとして、どうするんだ? お前にその神通力とやらが使えるのか?」
そう言われて、改汰はぐっと押し黙ってしまう。それを見かねたのだろう菊丸が背を向けて言った。
「このままここで考えていたって埒が明かない。力尽くでもスズを取り返すぞ。」
「待てよ、一緒に連れて行ってくれ! どうすれば良いか分からないけど……おれだってスズを助けたいんだ!」
菊丸のぎろっとした鋭い視線が改汰を突き刺す。数拍間を置いて「勝手にしろ。」とだけ言い残し、菊丸は掃き出し窓から庭に降りていった。気が付けば花火は終わり、完全に夜の帳が下りて、闇の深さがいっそう濃くなっている。改汰は玄関にまわって履きなれたスニーカーをひっかけて、隅で寝ていたおもちの頭を軽く撫でてから、菊丸と豆千代の背を追いかけた。
「行く宛てはあるのか?」改汰が尋ねた。
「スズたちが居るとしたら山頂の可能性が高い。あそこには『花』の祠があるからな。」
「山頂か……行ったことがないな……。」
「せいぜい気をつけろよ、人間。山頂は俺たち狐も滅多に入らない、山神様の領域だ。ヘマをしたら最後、命の保証はないぞ。」
「お、脅すなよ……。」
「ふん、脅しと思っていられるのも今のうちだ。」
摂社の横、境内を囲む雑木林のなかに、注意深く見ないと気が付かないけもの道があった。菊丸と豆千代はそのなかをなんの躊躇いもなく入っていき、改汰も意を決して大股で続いていく。歩くたびに落ちた小枝が折れる音が鳴った。五分ほど歩いたか、なだらかな勾配の一本道は終わりを告げた。前を歩いていた二人は足を止め、暗闇に慣れた目を凝らして先を見つめると、そこは草木が覆い茂っていて、さすがに通り抜けるのはけものでも難しい気がした。
菊丸がなにか小声で唱えて、草木が陽炎のように輪郭を失くして消える。
「ここからは妖の世界。いらっしゃいませ、改汰さん。」
豆千代が首を傾げて微笑む。彼女曰く、人間が入ってこないように行き止まりのように見せる結界を張っているのだという。たしかに、結界の向こうには地続きの道があった。本来、人間は入れない世界。目の前の彼らは本当に人間ではないのだと実感する。それから、戻ってくる頃にはまだ人間でいられるのだろうかと、漠然とした不安が募る。心のどこかで戻れない覚悟だけをして、改汰は結界のあちらへと足を踏み入れた。実際には続く道にはさほど変わりはなかった。ただ、道の両脇で握りこぶしほどの火の玉や、鼠やイタチに似て非なるものがこちらをじいっと見ているので、それにはさすがの改汰も恐怖心が勝る。隣を歩く豆千代も青ざめた顔をして「ひいっ!」と引き攣ったような悲鳴を上げていた。
「普段はこんなじゃないのにぃぃぃ……!」
「おい、走るぞ!」半泣きの豆千代たちを菊丸が急かす。
弾かれたように、彼らは全力で走る。小さな悪妖たちが彼らの道を阻んだ。そのたびに豆千代と菊丸がなにかを唱え脇へと追いやった。それはスズを助けようとした菊丸が弾き返された時とよく似ている。ここは妖の世界で、自分はなにも出来ないのだと思うとちくりと胸が痛んだ。今も二人に守られて、スズに何が出来るだろう。人間が踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまったのだと、フィルム越しではない現実が改汰の身体を染め上げていく。
がむしゃらに走って、菊丸と豆千代が足を止めた。視界を埋め尽くすほどの太い木の幹があり、見上げると頭は闇で輪郭が曖昧になっている。豆千代が根元の草を掻きわける。根の下には空洞が出来ており、下に潜れるようだ。
「お前らは先に行け!」菊丸が悪妖を散らす。
「改汰さん、わたしの後についてきて!」
「お、おう!」
言われるがままに入り込み、彼らはもぐらのように進んだ。誰が掘ったのだろうか。
「ここを通れば頂上まですぐです。」
「あいつは……菊丸は平気なのか?」
「菊丸くんなら心配ないです。彼は強い人ですから。」
豆千代の表情は見えなかったが、その柔らかく、しかし明瞭な声色で分かった。きっと彼女は彼に特別な気持ちを抱いているのだ。少し前の自分ではきっと汲み取れなかった、人のささやかで細やかな感情や、思考や、そういう形の見えないものが、泡のようではあるが手に取ることが出来た。
穴を抜けると、草々が茂る開けた場所に出た。誰かが切り拓いたのだろう、草原は意図的に作り出されている印象を受ける。改汰が片足だけで地を踏んだ瞬間、ゴゴゴゴ……と、地響きがしてよろめいた。バランスが取れなかった豆千代が改汰に思い切りぶつかって、二人は揃って転がった。
「あ、改汰さん……あれ……。」
豆千代の震えたひとさし指がさす先に『彼女』は居た。巨岩が現れたように見えたのだ。
至大な漆黒の狐が、こんじきの三日月を食べるようにして大口を開けて吠えていた。
◆
我慢は得意なほうだった。皆が笑っててくれる方が好きだから。我慢だとは思わなかった。それが自分の望みだから。
あの時。山神様の『花』を目の前にした時。その先に彼との未来が過ぎって、初めて身勝手な行動をとってしまった。決して破ってはいけない掟を破ってしまった。叶わないと諦めていた「改汰に会いたい。」という願いは叶ったのだ。皆の幸せという代償を払って。だからこれ以上は欲張りだ。けれども。
「困ったなあ。私、いつからこんなに欲深くなっちゃったのかなあ。」
スズは皮肉っぽくわらう。すべてがはじまった祠の前で今、終わりを迎える。逃げる気はなく、覚悟だけがそこにはあった。最初から終わりが来る事は分かっていた。彼と人生最後の時間を過ごせたのだから、これ以上ない幸せを味わったのだ。一人でやったことを、一人で終わらせるだけだ。
横たわるスズの視線の先には、残った『花』の房が小さな光を放って輝いている。仰向けになって、見上げれば澄んだ空には夏の大三角があった。星のひとつひとつに名前が付いているなんて知らなくて、何日目かに美恋が教えてくれたものだ。そして、紫黒の空には三日月があった。ふと昨晩の、改汰がスズを見つけた時の表情を思い出す。あんなにも必死になってくれて、本当は心のどこかで嬉しいと思ってしまった。
「でもきっと、今もあんな顔をさせちゃってるんだよね……ごめんね……もっと一緒にいたかった。本当はさよならは嫌だよ……すごく怖い……あらた、大好きだよ……どうか、どうか、私の事を、……忘れないで。」
お願い、忘れないで。許されるのであれば、今はそれだけが願いだ。
瞬間、月が朱く染まり、スズは恐怖に震えた。そしてそれは自身の視界が朱く染まったのだと気が付くのに時間はかからなかった。意識がぼやけていく。腹の黒い痣が灼熱を帯び、痛みに疼く。痣は蔦が身体に巻きつくようにしてスズを飲み込み、身体が黒に染まる。だれかの顔、声、名残惜しい感覚が、紙を燃やすように消えていく。自分が何者なのかも分からなくなっていく。
スズの脳裏には鈴の音だけが残り、遠く消えて行った。
◆
「無事か!?」
遅れてやってきた菊丸が問う。改汰は頷き、手を貸して立たせた豆千代は鼻を啜って泣いている。慟哭の正体に、菊丸は唖然とした。それは『化物』と呼ぶべきであった。九つの尾を蛇のようにうねらせ、啼き声はさながら猛獣である。改汰は「屏風の伝説そのものだ。」と思った。
「……あああっ! くそっくそっ! どうすれば良いんだよ!?」
改汰が激昂したまま菊丸を揺する。先ほどまでの威勢はどこへやら、菊丸は俯いた顔を上げなかった。
「もう無理だ……。」菊丸がぽつりと零した。
「は?」思わず改汰が聞き返して、腕を振り払われる。
「間に合わなかったんだよ! あの姿になってしまったらスズはもう……!」
予想だにしていない言葉であった。彼が簡単に諦めようとしていることに、少し失望を覚える。ここで諦めるわけにはいかない、絶対にスズを助ける。だって、こんなにも、
「……だから何だよ……間に合わなかったのが何なんだ! スズが助けてって言ってる、泣いてるじゃないか! おれたちが助けなきゃ、誰があいつを助けてやれるんだ!」
考えろ、考えろ、考えろ……改汰は必死に思考を巡らせる。菊丸の耳がぴんと跳ねた。
「あいつの声が聞こえるだって……? くそ、これだから人間は嫌いなんだ……。」
数歩前に出た菊丸が、振り返って二人を見る。そこには反発したように威勢を取り戻した彼が居た。冷たい目元の奥に、負けず嫌いの炎を燃やしている。
化物が啼くたびに、大地が響く。改汰に特別な力はなくとも、身の毛がよだつ嫌な空気や、芯から冷えるような悪寒、浅くなる呼吸が、あの化物が放つ禍々しい気を感じ取る。菊丸は無意識か否か、自身の腕をさすっていた。
「あいつの力に充てられた低級霊や悪妖が集まって膨張しているんだ。どんどん濃くなっていくのが分かる。……どうすれば……。」
菊丸は化物を真っ直ぐ見つめているままである。おそらく二人はずっとこの感覚を味わいながらここまで来たのだろう。豆千代がなにか思いついたように耳をぴんと立てた。
「浄化の呪符は!? 低級霊や悪妖が集まっているだけなら浄化の呪符で払えるんじゃ……!?」
菊丸はすぐに首を横に振った。
「確かに、やつらは浄化することで払える。だが問題はあの大きさだな。呪符であれを浄化するとなると何枚必要になることやら……。もっと大きくて強い浄化作用のあるものが必要だ。」
「そんなあ……。」
豆千代の耳が項垂れる。改汰は、美恋の父との会話を思い出した。
「大きい……浄化……。」
『ここの御神体は湖で、本殿はない。湖にはご先祖様が眠っているんだ。んで、ご先祖様を御神体とした。だからあの湖はどんな穢れをも落とす神聖な場所って言われてるらしい。』この言い伝えを心から信じているのは祖父くらいだ。しかし自分だって野上家の血を引いている。だから今、言い伝えを信じて縋るしかないと思った。
「――湖。」改汰がぽつりと言って、菊丸と豆千代が改汰のほうを向く。
「神社の階段上の湖は、どんな穢れも落とす神聖な場所だって言われているんだ。」
「ほ、本当に……!? じゃあ湖までスズちゃんを誘導して、湖で清めることが出来ればスズちゃんは助かるのかも!」
豆千代が泣きすぎて真っ赤に腫らした目をぱっと輝かせる。一方、菊丸はすぐに返事はしなかった。黙り込んだまま化物をしばらく見つめてから、フンと鼻を鳴らし「それしか方法がないなら……やる価値はあるか。」と答えた。
「おい、人間!」
「あ?」
「昔、あの姿になった狐はその命が尽きるまで暴れまわったんだ。これから俺の一族が結界を張る。被害を最小限にするために結界の中で弱らせるつもりだ。そうなるとスズは時間で死ぬか、殺されるかだ。」
「なんだって!?」
「いいか、お前はこのまま山頂に上ってスズを湖まで誘導しろ。」
「わ、分かった! 二人はどうするんだ?」
「俺と豆千代は別方向から一族の結界を張る儀式を阻止する。」
改汰は頷いた。
「二人とも、気を付けてくれよ。」
「言われなくとも。」「改汰さんもね!」
菊丸が自身の口元で手のひらを上に向け、ふうっと深く息を吐くと、青い炎があらわれた。菊丸の手のひらの上で踊るように揺れている。炎が彼の手を離れると、幾つにも分散して一本の綱のように道筋を照らし出す。改汰は幼い頃に絵本で読んだ『ヘンゼルとグレーテル』を思い出した。
「山頂までの道案内をしてくれる。こいつを辿っていけ。」
「さっすが! 頼りになるぅ!」
「や、やかましい! 時間がないんだ、さっさと行け!」
なんだ、案外良い奴じゃないか。敵に回したら怖そうだが、味方につけたら百人力だ。そんな頼りがいのある雰囲気が菊丸にはある。すべてが終わったらゆっくり話をしてみたいとさえ思う。改汰は背を向けて走り出した。
覚悟はしていたつもりだが、想像以上の勾配の強さと道の険しさに、少し駆け上がっただけでぜぇぜぇと息があがった。炎は闇の向こうまで続いている。そばの幹に手をついて呼吸を整えてから、再び大股で上がる。炎の灯りのおかげで改汰の周囲は淡く明るみを帯びていた。しかし最短距離を選んだせいだろう、無数の小石が転がった細い道は慎重に歩かねばならなかった。案の定、不安定な石ころに足を取られて、改汰は瞬く間に脇の急斜面を転がり落ちていった。幸いだったのはその斜面に高さがなく、時間にしてほんの二、三秒であったことだ。立ち上がった時、右足首に嫌な痛みを感じた。
「うわ、まじか……!」
ズキズキと痛んで、蹲ってしまいたい。しかし今は痛みを無視して、進まなければならない。額に脂が滲む。顔を上げて、改汰はまた問題にぶつかった。菊丸の炎がどこにも見当たらないのだ。改汰は今度こそ弱気になった。炎を頼りにして無心に走ってきたので、今自分がどちらを向くべきなのか見当もつかなかった。三百六十度、見渡した。何度も何度も、どんな小さな灯りも音も逃さないように、全神経を集中させる。
その時、暗がりの奥に何かが光った気がした。そちらの方面へ目を凝らしていると、青い炎が一斉に灯り、周囲をぼうっと白く照らす。改汰は惹かれるようにしてそちらに歩み寄る。そうして近付いてみて、初めて石造りの鳥居と上に向かう階段が佇んでいるのを認識したのであった。それらは神社から湖へと向かう石階段とほとんど同じである。改汰は見慣れた階段を一気に駆けあがる。足首の痛みも息苦しさもすっかり忘れていた。
山頂に辿り着くと、そこには草原が広がっていた。先ほど二人と別れた草原よりもずっと広大で、改汰は化物の足元に出た。化物を卵型の切子硝子のようなものが覆っている。それは黒狐一族が張った結界であった。
「スズ! おれだ!」
叫んでみても、届いていないようだ。化物が結界に体当たりをしては慟哭を繰り返し、その度に耳を塞ぎたくなるようなキーンとした音が頭に響く。改汰はズボンのポケットの中でくしゃくしゃになってしまった鈴のついたリボンを取り出し、激しく鳴らしてみた。
「スズ! 元に戻ってくれよ、スズ!」
応えるように、結界が解けた。実際は菊丸と豆千代の邪魔が入ったのだろう。作られたチャンスを無駄にしないよう、改汰は鈴を鳴らし続けた。どうかこの音色を覚えていて欲しい。似つかわしくない可憐な音に、化物がわずかに反応したのを見逃さなかった。「今だ!」と改汰は思った。
「スズ! こっちだ! こっちへ来い!」
腕を天高く、鈴の音が彼女に聞こえるように。改汰はそのまま、今しがた上がってきた階段を一気に駆け下りた。化物の足は思ったよりも早く、気が付けば改汰は半ば追いかけられる形になっていた。化物が進むたびに木々がなぎ倒される。秋めいた夜の風はどこへやら、火照る身体と汗が全身を伝ってここには熱帯夜が訪れていた。例えば集中しているとその場に関係のない映像が浮かんでくることがある。今、改汰の脳裏にはスズと最初に会った日のこと、少し前まで唸らせていた人生の白紙の地図が早送りに再生され、そしてこれからの自分をありありと描くことが出来た。希望の光のようなものが手の届くところまで近付いている気がしたのだ。
湖はもう目と鼻の先だった。その湖は星が落下して漂うようにきらきらと輝いている。すぐ後ろでは追い付いた化物が改汰に目掛けて鋭利な爪を振り上げている。走るスピードを上げていた改汰は湖に勢いよく飛び込んだ。化物も獲物を逃すまいと脊髄反射のように自ら飛び込んだ。大きな水飛沫をあげて、彼らは沈んでいった。
改汰が水中で目を開けると、気を失った少女のスズが居た。彼女には菊丸や豆千代達と同じような黄つるばみ色の耳と尻尾があり、それが本来の彼女の姿であった。スズの口から黒い靄が吐き出され、煙のように漂ったのちに、はっきりと人型を形成した。それは妙齢の女性であった。女性は悲しそうに微笑んで、すぐに消えた。それから、スズは狐の姿になった。改汰はスズを抱き寄せると、水面に上昇して顔を出した。
「スズちゃーん!」「改汰! スズ!」
岸際では菊丸と豆千代が並んで改汰たちを探している。特に菊丸は服が薄汚れ、破れているのが遠くからでも見て取れた。改汰は応えるように手を振り返す。彼に気が付いた豆千代が、菊丸の裾を引っ張った。改汰はスズを抱えたまま、なんとか岸際まで泳ぐ。最後は菊丸が引っ張り上げ、その勢いで彼は尻から倒れこんだ。
「本当に良かった……!」
豆千代が何度目か分からない涙を流した。そんな場面には相応しくない、優雅な足取りで現れたのは、尾が九つに割れた白い狐であった。菊丸と豆千代は咄嗟に居住まいを正し、その神々しくも異質な存在が山神であるのは、改汰にもすぐ分かった。山神が「やれやれ、」と首を横に振る。
「窮鼠猫を噛む、といったところか。」
「あなたが山神様ですね。今度はスズをどうする気ですか……?」
スズを渡しはしまいとぎゅっと抱きしめる。辺りは虫の鳴く声が静かに響いていて、先ほどまでの騒ぎを微塵も感じさせない。山神は意外そうな様子を見せた後、声を上げて笑うので、今度は彼らが面食う番であった。
「どうする、だと? どうするも何も、其方がどうにかしてしまったではないか! 鈴渚にはもう邪悪な力は残っておらぬ。それどころか妖力もな。最早そやつはただの狐だ。」
要するに、スズは助かったということだ。改汰はほっとして、喜びを噛みしめる。しかしすぐに警戒するように声色を低くして、山神に尋ねた。
「スズが狐に戻る瞬間、黒い靄が女性になりました。あれは誰なんですか。一体スズの身になにが起きたんですか。『花』ってなんですか。」
瞬間、山神の纏う空気が変わったのが分かった。山神は何秒か口を閉ざし、改汰たちは返事を待った。スズの肺がゆっくりと上下しているのを手のひらで感じる。
「……そうか。まあ、そう焦るでない。其方たちは伝説の核心まで辿り着いたのだ。ここはひとつ、昔話でも聞いていくが良い。」
山神は語りだした。
◆
昔、人間の村の土地神をしていた一匹の黒狐が居た。その頃は束ねられていない妖があちこちで騒ぎを起こすことも多かったが、なんとか村を守っていた。ある時、どこかの旅人についてきた妖が村に『良くないもの』を運び、疫病や農作物の不作、神隠し等、あちこちで厄災が起こるようになった。そこで村人たちは、厄災から逃れるために黒狐の毛皮を求めて狩りを始めた。村に蔓延る妖怪や悪霊たちの厄災は負の連鎖で力を増し、もはや土地神の力ではどうにも出来なくなっていた。
ある時土地神は、山菜を採りに山に入って、妖に襲われた一人の娘を助けた。ふたりが愛を育むのに時間はかからなかった。娘は妻となり、ふたりの間には息子が産まれたのである。
依然として厄災は蔓延していた。しかし愛する妻と息子が居る。土地神は山の暮らしに満足しており、厄災を収める気が失せていた。愚かにも現状に問題はないと判断してしまったのだ。その厄災が十五年後、妻に降りかかるまでは。
土地神は延命の為に妻に妖術をかけたが、失敗して、彼女は化け物になった。土地神は神通力を持った息子とともに、化け物になった妻を倒した。そこに『花』が咲いた。
息子は土地神の血を引くが、半分は人の子であった。人里に降りた彼は、自分の居場所を見つけたように村に生涯を尽くした。人々は神通力を使えるその青年を崇拝した。そして土地神は「これからも村を守っていくように。」と、息子に山の麓に神社を立てさせた。これが後の『野上神社』である。青年が天寿を全うしたのちに、遺体は湖に沈められ、それが御神体となった。
◆
「これがどこにも語られていない伝説の真実。私の昔話だ。」
「じゃあ、改汰さんが見た女性は、もしかして山神様の奥様……?」
「そうに違いないだろう。」山神が頷く。
横では、話を聞いた菊丸が顔を真っ青にしていた。
「……ちょっと待ってください。それが真実だと言うのなら、黒狐一族に伝わるあの伝説は何だったんですか……。」
未だにスズは狐姿のまま、目覚める様子はない。相当深く眠っているのだろう。そして山神の語りに改汰も意表を突かれていた。祖父に何度も聞かされた話が本当にあった話であること、伝わっていたのは実際の一部分でしかないこと。そして菊丸の様子からして、彼らにも別の伝説が伝わっているのは想像するに容易い。
「菊丸。我が子孫よ。歴史というものは往々にして都合の良いように書き換えられていくものなのだよ。」
山神のそれには憐れみが含まれていた。菊丸は何か言おうとしたが、言葉が見つからなかったのか、結局口を閉じてしまった。豆千代が項垂れる彼の背中を優しくさする。次は豆千代が尋ねる番であった。
「『花』をこの湖の力を使って浄化することも出来たんですよね……? 『花』が危険なものだと分かっていて、それをしなかったのはなぜですか?」
山神はふっと笑った。
「それは私の弱さ故、と言って構わない。『花』は強い妖力を持っていたが私にとっては亡き妻の化身。滅することは出来なかった。しかし強大な力は時として災いを招く。だから誰も近づけぬよう祠を建て強い結界を張り、守ってきたのだ。――この山と『花』を。」
糾弾することは改汰には出来なかった。もしスズが化物のままで『花』になってしまったのなら、自分は目の前の愚かな神と同じことをしただろう。スズ、戻ってくれて良かった。改汰の大きな手が、狐姿のスズを優しく撫でる。そこでひとつ、疑問が湧いて出た。
「あの、さっき、スズは妖力を持たないただの狐だって。妖力のない狐はどうなるんですか……?」
「妖力のない狐は、」山神が口を開くよりも先に、菊丸が反応した。
「ただの野狐だ……。言葉は話さず、妖と同じ生活は出来ない。」
「えっ……!?」
スズを助けて、無事、元に戻ると思っていた。思い切り頭を殴られた感覚に、冷や汗をかく。改汰は思わずスズを揺すった。
「そんな……嘘だろ!? 嫌だ、絶対に! こんなところでお別れだなんて! ――スズ、目を覚ませ! あらた、って! また名前を呼んでくれよ!? なあ、スズ! ……スズ……!」
改汰の双眸からぽろぽろと雫が零れて、スズの毛並みを伝って流れる。喉が熱い。嗚咽が止まらない。豆千代の泣きはらした目から再び涙が落ち、菊丸も手足を震わせて顔を俯けた。スズの、高山に咲く白い花のような笑顔と、自分を呼ぶ透き通った声が脳裏を満たしていく。
「落ち着け。」山神が静かに制止した。
「そんなにもこの娘を愛しているのなら、改汰、其方に問おうではないか。」
山神と目が合い、息が詰まる。
「鈴渚と生きる覚悟はあるか? この先何が待ち受けているとも知れない、幸せになるかもしれないし不幸になるかもしれない、そんな道を鈴渚と歩んで行けるか?」
「山神様!?」菊丸と豆千代が唖然とする。
「この娘は重大な罪を犯した。命は助かったが、どのみち狐塚(さと)からは追放しなければならぬ。しかし私にも少なからず罪悪感はあるのだよ。」
そんな会話をよそに、改汰は瞼の裏側に鮮やかに描かれた風景を見ていた。薫風吹く野山の青々とした風景、子狐と走り回った思い出、鳴りやまない鈴の音、泣きじゃくった夕暮れ。離した体温。
改汰の答えは決まっていた。
◆
繭に閉じ込められたような意識のなかで、だれかの叫ぶ声が聞こえた。叶うなら、三人でずっと一緒に居たかった。春には桜で一色になり、夏は木漏れ日と透き通る葉脈が美しく、秋は栗やイワナを採り、冬は銀の景色で染め上がって音が消えた。そういうふうに巡る季節を一瞬一瞬、大切に噛みしめていた。それだけなのに、業火に燃えるようなこの苦しさは一体何なのだ。忘れないで、もっと生きたい、助けて欲しい。
「其方を化物にするくらいなら、眠るように死なせてやるべきだった。もっと一緒に居たくて過ちを犯してしまった。私の身勝手でこんなにも苦しませてすまない。」
その声は泣いていた。どれほど経ったのか、やがて苦しさはすうっと消え、胸に残ったのは蝋燭の灯のような温かな光であった。ありがとう、愛してる、どうか幸せに。そう伝えたくても唇は動かなかった。怨みはない。彼に罪はない。とにかく、そう伝えたかった。
その少女は人間に恋をしていた。一心同体になれるような気がして、気が付けば、少女を呼び寄せていた。そして少女は『私』を食べた。
◆
平たく言うと、失恋した。
「いてっ……、」
「あ……ご、ごめんね……。」
「……いや、……いい……。」
湖畔の木陰で、菊丸は豆千代に包帯を巻かれていた。初めて父親に反抗し、命を賭したものは、結局手の届かないところへ行ってしまった。菊丸の胸はぎゅうっと痛み、しばらくは続くかもなあとぼんやりと考える。彼女は自分たちのもとに戻ってきてくれると、最後まで心のどこかで信じていた。この夏も来年も、その先も、ずっと傍に居る未来を描いていた。現実は思い通りにいかないらしい。そんななか、ひとつ、分かったことがある。見えるものが総てではないということだ。
「……俺、頭首になれるように、総本山に修業しに行くよ。」
「えっ?」
豆千代は包帯を巻く手を止めて、顔を上げた。豆千代の丸っこい朽葉色の眼球に、彼が映る。菊丸は続けた。
「もうこんな悲劇を繰り返しちゃいけない。それに歴史も――正さなきゃな。」
菊丸は三日月を見上げた。信じて疑わなかった伝説は間違っていて、未だに受け入れられない部分も多い。しかしあんなにも憎んでいた人間は、今はそれほど悪い気がしない。矢のように真っ直ぐ進んできた菊丸にとっては、己の感情に戸惑いを隠せない。
「大丈夫! 菊丸くんなら立派な頭首になれるよ! わ、わたし! 菊丸くんの役に立ちたい! 協力したいの!」
豆千代が身を乗り出して、彼女にしては勢いづいた言葉を放ったので、菊丸は呆気に取られてしまった。それから無意識か、豆千代は手当てをしていた菊丸の右手を優しく握った。
「わたしにできること、あるかな……?」
切れ長の瞳で、目の前の少女をまじまじと見る。弱くて泣き虫なだけの幼馴染だと思っていた。けれどこの数日、彼女の勇姿を見せつけられたのだ。スズも、豆千代も、ずっと傍に居たのに、自分の知らぬ間に成長をしていた。それが悔しくて、寂しい。菊丸は「自分も変わらなければ、」と思う。だからこそ、豆千代の言葉がとても頼もしいものに聞こえた。
「ま、そうだな。豆千代に出来ることを考えておくよ。期待しててくれ。」
「えっ!? う、うん……!」
豆千代は「わたし、頑張る……!」と両手で拳をつくっている。彼女の純粋さと意気込む様子がなんだか面白くて、菊丸は思わず吹き出した。変わるものもあれば、変わらないものもある。それを少しずつ受け止めていこうではないか。生まれたばかりの清く涼やかな風が山を駆けた。
◆
瞼がひどく重かった。浮遊した意識をしっかりと掴んで、全身に力を籠めなければまた沈んでしまうようだった。もがいていると、聞きなれた声が名前を呼んだ。そうしてスズは、ゆっくりと瞼を上げることが出来た。
「スズ!」
「あら、た……?」
「よ、良かった……本当に、良かった……! 身体、起こせるか?」
改汰の手を借り、上体を起こす。目の前には湖畔が静かに広がっていた。東の空は瑠璃色で、緋の細い帯が木々のてっぺんを走っている。とても悪い夢を見ていた気がする。誰かの記憶が混ざったような、長い夢だ。スズは己の身体に違和感を覚え、腕や脚や頭に触れてみて、そうして自身になにが起こったのかを理解した。一度は覚悟した命、それがまだこの肉体に宿っている。泉が湧き出すように、闇のなかの夢が蘇る。ずっと、ずっと、聞こえていた彼の声。泣きながらそれを追いかけていた。
「あらた、ごめんなさい……わたし、あなたにあいたくてっ……!」
「もういいよ、スズ。全部おわったよ。」
改汰の声はわずかに掠れていて、温かかった。一度涙が溢れたら、もう止まらない。最後にこんなにも泣いたのはいつだったか。スズは子どものように声をあげて泣いた。口を大きく開け、涙が頬を伝う。肺が震える。熱い雫はスズを引き寄せる改汰の肩を濡らす。こつりと、スズの額に、改汰の額がくっつく。滲む視界は改汰のやさしい瞳と、ほのかにあがった口角を捉えた。
「これからは一緒に生きていこう。」
「……うん!」
スズは大きく頷いて、改汰に勢いよく抱きつく。彼のにおい、骨ばった手、安心する声。それらが腕のなかにあって、もう離れていかない。
「改汰、大好き。」
ずっと欲しかった体温を、今、全身で感じていた。
【完】