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​原案 ゆめこ/こひ
物語 ゆめこ/みかげ
小説 みかげ
表紙 cyawa

 鬱蒼とした茂みのなかを、一匹の狐が走り抜けていた。低木の梢が狐のしなやかな身体を傷つけ、それでも狐は足を緩めようとしなかった。鳥たちの威嚇する鳴き声があたりに響き渡る。狐は陽の差さないその場所で、影を見ていた。それは至大で、新月の夜のように暗い。うかうかしていたらすぐさま飲み込まれるような気がして、狐の本能が「逃げろ、」と掻き立てる。だから狐は走っていた。しかし、突如として狐の足が止まった。背中を大きく反らせると苦しさにうめいた。
 四本の脚は、五本指を持つ手足にたちまち変化した。黄つるばみ色の毛並みが白い肌となり、獣のうめき声は人間に近い言葉を発し、角立った耳と長い尾を持った十代の少女の姿となった。そして耳と尾は徐々に白んで消えた。痛みに耐え切れずに地に膝をつくが、少女は倒れることなく、ふらつきながらも今度は二本の脚で立ってみせ、腕を振って走った。首筋には汗が伝う。
 背後から、女とも男ともつかない声が聞こえてくる。
 ――イキタイ、アイシテル、タスケテ。
「何なの……あれ……。」
 ぜえぜえと呼吸をしながら、少女は呟いた。少女にソレの正体は検討もつかなかったが、原因は理解していた。眩暈がする。頭が痛い。せり上がる胃のものを吐き出してしまいたい。まるで自分の体ではないようだ。それでもやみくもに足を動かし続けた。
 その猛追は、崖に足を滑らせたことで終わりを迎えた。少女は悲鳴を上げる間もなく、崖下へと消えていく。足音と梢を散らす音が消え、影の姿はなく、烏とひぐらしの鳴き声だけがそこには残った。





 真夏の午后に、壊れかけの扇風機の前で野上改汰(のがみあらた)は暇を持て余していた。
 東京から電車で北上し約四時間、そこからは祖父が軽トラで迎えに来てくれる。でこぼこ道を四十分ほど揺られた先の、山間部にある小さな村に改汰の祖父の家はあった。祖父の家を訪れるのは実に三年振りで、祖母が亡くなって以来のことであった。その時の村は夏の盛りが過ぎ、裏手の山では秋の絵具が木々をまだらに色付けていた。
 今年、夏休みの前日。改汰は父に予定を尋ねられ、特に何もないと首を横に振ると、都合が良いと言わんばかりに「そろそろじいちゃんに顔を見せてやってくれないか。」と頼まれた。それから断る間もなく新幹線の切符が用意されていたが、父なりの気遣いなのだろう、ここのところ改汰が進路に頭を悩ませているのはお見通しだったようである。肝心の父親は「自治会の夏祭りに出店する。」と、仕事が多忙を極めて自営業の店を閉じられず、母と妹は趣味に興じるらしい。何もないこの村の夏は、もう虫取りに夢中にはならない高校二年生の改汰にとっては刺激が足りなかった。
 ちりんと、縁側に吊るされた南部鉄器の風鈴が控えめに鳴る。太陽は上にあるから、灯りをつけない日本家屋の中は影が濃い。東京とは違う、乾いた暑さが改汰の体温を上昇させていく。たとえ扇風機がガタガタと不穏な音をたてていても、その存在は必要不可欠であった。この村に家電量販店はあっただろうか。
 改汰は暑さから意識を逸らすように天井の染みを数えてみたが、二十を超えたあたりで飽きて止めた。今頃、同級生たちはプールだのキャンプだのデートだのと夏を謳歌しているのだ。仲の良い友人はいるが、別段、遊ぶ約束はしていなかった。所詮はその程度の仲なのかもしれないと、改汰は心中毒づいた。
「ひまそうね。」
「……超ひま。」
 従姉の野上美恋(のがみみこの)が逆さに映る。美恋は形の良い眉を吊り上げて笑っていた。
「そんなにひまならさ、ネイルの練習に爪貸してよ! 新作考えたのよね~!」
「いやですさすがにそれは勘弁してください。」
 男の爪に色を塗りたくって何が楽しいのか。美恋は本気ではなかったらしく「あっそう。」と返しただけであった。器用に彩られた花柄のネイルがちらりと改汰の視界に入る。
 美恋はこの山の麓の周辺の、主要部に住んでいる。そこから一時間かけて美容系の専門学校に通っているのだから、つくづく田舎というものは若者に優しくない。美恋が美容系の専門学校に行きたいと親族たちの前で告白した場面を、改汰はよく覚えている。改汰は中学二年生で、やはりこの家で、夏だった。美恋はまだ高校一年生で「あたし、メイクアップアーティストになるから! だから美容系の専門に通うわ!」と、声高らかに宣言したのだ。古風な考え方をした親戚たちは口をそろえて猛反対し、美恋の両親が「まだ時間があるからじっくり考えなさい。」と一同の前で窘めることで事態は収束したが、それから志は変わることなく今に至る。幼い頃から、美恋はお姫様のようであった。きらきらしたものが好きで、新しいものも古いものも分け隔てなく興味を示し、流行に関しては東京にいる改汰よりも敏感であるのだ。改汰にしてみれば、納得であり、今となってはあの頃の美恋に、素直に尊敬の念すら覚えている。
「美恋はさあ、」間延びした口調で改汰は問う。
「専門卒業したらどうするとか、あんの?」
 美恋が「うーん、」と唸った。
「とりあえず東京行くかな。シューカツしなきゃだしね。新宿、原宿、吉祥寺、それから渋谷! 改汰は東京のどのへんが良いと思う?」
「わ、分からない……。」
 たじろぐ改汰に、美恋は「はあ、」とため息を吐き、呆れたように向きなおす。
「前から思ってたけど改汰って、東京に住んでるわりに東京に疎いわよね。何かやりたいことないの? 好きなものは? 進路相談ならお姉さんが聞くぞー?」
「…………わからない。」
 本心だった。なにも分からない。自分がなにが好きで、何がしたいのか。未来も、明日のことも。すべてが暗闇のなかのようで、一筋の光すら見つけられない。打ち込めるものも、得意なこともない人生だ。そこそこに勉強して、そこそこの大学に入って、どこか職にありつければ良い。そう思っている傍ら、何か大きなことを成し遂げたいと思っている自分が同棲しているのも事実だった。
「ならいっそ、この神社継ぐっていうのはどう!?」
 ぱっちーんと指が奏でる景気の良い音が、改汰の思考を遮った。
「えっ!? どうしてそうなるんだよ!?」
「いいじゃーん! 就職に関しては安泰よ!」
「若者の楽しみという楽しみすべてを捨てればね……。」
 縁側の向こうに、古びた石造りの鳥居が小さく見える。山のなかにある湖に続く階段で、昔は遊びによく上ったが、いつからか足を踏み入れることがなくなった。『野上神社』は古くから続く神社らしいが、詳しいことは改汰は知らない。次の神主を美恋の父が継ぐとは言われているが、実際どうなるかは分からない……というのが実情であった。
「なんだ、改汰が継いでくれるなら安心じゃな。」
 気が付くと、祖父が西瓜を持って立っていた。採れたばかりなのだろう、赤い果肉はきめ細かで瑞々しく、果汁が零れて皿に滴り落ちる。改汰は焦ったように思い切り上体を起こした。
「じいちゃん、本気にしないでくれよ!」
「ならまず手始めにこの地に伝わる伝説からじゃな。」
 美恋が「まーた始まった。」と、どこか愉快そうに唇の片端を上げる。改汰も美恋も、祖父と顔を合わせるたびにこの話を聞かされてうんざりしていた。それでも西瓜があるのならちょうど良い暇つぶしになるだろうと、ふたりは西瓜を手に取り、祖父のほうを見やった。祖父は一息入れ、口を開く。
「千年前、この地に厄災が訪れた。地は枯れ、疫病が蔓延し、残った人々は故郷を捨てようと覚悟していた頃、どこからか我らがご先祖様がやってきた。彼は神通力を使い、厄災を追い払った。そしてご先祖様は言った――山の麓に社を建てよ。さすればこの地に再び平穏が訪れん、と。村人たちはご先祖様の進言通りに社を建てた。それが『野上神社』の始まりじゃ。」
 祖父は背後の屏風に目を移した。ちょうど今の改汰と同じほどの高さで、金箔は剥がれ落ち、長い時を経て鮮やかさは失われている。屏風には大小を連ねる山々が描かれ、屏風の真ん中の、最も大きな山には狐と見受けられる巨大な黒い生き物が描かれていた。尾が九つに割れた禍々しい怪物が、陰陽師のような恰好をした人間と対峙している。鎮めているふうに見えるが、一方で対話しているようにも見える。
「その後もご先祖様は村に生涯を尽くし、平穏が保たれた。今、この村があるのはご先祖様のおかげなのじゃ。……わしらにはこの神社を守っていく使命がある。わしの代で途絶えさせるわけにはいかん。」
 聞き飽きた話だ。改汰は「ふーん、」と西瓜を食べきって、
「ごちそうさま! おもちの散歩行ってくる!」
 祖父が何か言い返すよりも早く、玄関で寝ている老犬を起こして、早々と家を出た。

 うす雲に薄紅がかかり、蒼藤の空の色と境目なく交じり合っている。蝉時雨はいつの間にか穏やかなものとなり、はあはあと舌を出して歩くおもちの歩調に合わせながら、改汰は天を仰いだ。「平和だ……。」と、漠然と思う。改汰が想像を巡らしたのは、十年後の自分であった。あの大都会の喧騒に埋もれて、スーツを着て、上司に嫌味を言われながら客先でぺこぺこと頭を下げる。この景色も、土の匂いも、出口の見えない悩みも、いつか懐かしいと思う日が来るのだろうか。自分の人生はそれで良いのだろうかと、何度も何度も自身に問うてはぶつけられない衝動が腹の底で疼く。自分は何者かになれるのだろうか。
 ぼうっとする頭が一気に冴えたのは、突如おもちが走り出し、改汰の腕が脱臼しそうなほどに引っ張られたからであった。同時におもちの首が一瞬ぐいっと締まり、今度は激しく吠え出した。
「ど、どうしたんだよ! おもち! まて! まてったら!」
 改汰の命令を聞かずに、おもちはしきりに改汰を引っ張り続けた。改汰は諦めて、おもちに引かれるがままに歩を進めると、そこは山の裾野であった。先は薄暗く、こうもなるとさすがに先を進むことを躊躇ったが、おもちが言うことを聞かないので、唾を飲み込み、仕方なく草をかき分けて茂みに入っていく。
 そこで見たのは、人間だった。
「し、死体……!?」
 スタンド・バイ・ミーかよ!
 改汰は心の中で突っ込んだ。おもちは倒れている人間に近づき、匂いを嗅ぐ。おもちを止めようとして、人間が「うぅ、」とうめいた。よく見ると、改汰と同じくらいの歳の、可憐な少女であった。
「あのぉ……大丈夫ですか……?」
 軽く肩をゆすってみたが、ぐったりとしていて反応はない。
 ――夏、傷ついたもの、戸惑い。改汰は何かを思い出した気がしたが、鮮明ではないものに物思いふける時間はないと、擦り切れた映像はすぐに泡のように弾けて消えた。
「と、とりあえず生きてる! スマホは……もちろん圏外だ! ここに放置しとくのはさすがにヤバいよな……?」
 救急車や警察を呼ぶにしても一度家に戻るしかないが、それまで無防備な少女をこの場に放置するのは気が引ける。如何せん、小さな村である。不審者は居ないにせよ、山に住む野生動物が何をしでかすか分からない。改汰は考えて、唯一思いついた案に躊躇った。しかし首を横に振り「人命優先!」と自身に言い聞かせる。
「失礼します……。」
 聞いていない相手に一応断りを入れながら、改汰は少女をおぶってみせた。少女のほっそりとした身体は見た目以上に軽く、改汰はぎょっとする。本当に人間なのだろうか。傍らで、おもちが二人を不安そうに見つめていた。腕を後ろに回し、少女が落ちないようにしっかりと抱え込む。
「よし、帰るぞ! おもち!」
 おもちは「ワン!」とひと吠えし、彼らは自分が守るのだと主張しているかのように堂々と先頭をきった。

 高校生の体力でも人ひとり抱えて十五分ほどの道のりを歩くのはさすがに堪えるようで、家に辿り着く頃には全身汗に濡れていた。アイスを片手に玄関を通りかかった美恋が「えっ、誘拐?」と目を丸くするので、ひどく慌てながら否定し経緯を話すと、物分かりの良い美恋は「ほうほう、」と、何かを悟ったような素振りを見せた。美恋は台所に立っていた自身の母を呼び寄せ、使っていない布団を敷いてもらい、その上に少女を横たわらせる。美恋と美恋の母は、少女の身体中についた傷をひとつひとつ丁寧に消毒し、包帯を巻いていった。一通り終わった二人が部屋を出ていこうとするので、改汰も続こうとして、
「あんたはここに居てやりなさい。起きた時に誰も居なかったら、この子、困るでしょ?」
 美恋が制止した。
 さらさらと細い髪が布団に散らばる。傷だらけの肌は夏に似合わず白く、四肢は細い。薄い胸が穏やかに上下していた。台所からは、醤油の匂いが漂ってくる。既に汗はひいていて、今はわずかに肌寒さを感じているほどだった。目の前の風景が、スクリーンの向こう側のようだ。目に映るものが何となく現実味がなく、けれどいつでもそうだった。少女の横で、改汰は鮮やかに染め上がる緋色の庭に目を細める。珊瑚樹の葉や実、池の水、石垣が、夕方のひときわ強い光に反射して、泡沫のように輪郭が曖昧だ。地に落ちる長い影だけがその存在を繋ぎ留めている。
「あら、た……?」
 名を呼ばれた気がして、振り返った。ゆっくりと少女の瞼が上がり、天井を見る双眸は心なしか焦点が定まらない。
「……あ! 目覚めたのか!」
 少女はハッとして飛び起きた。同時に改汰のほうを向き、まっすぐな瞳をぶつける。大きく透き通った眼球の中で白い光が凪ぐ。それはたちまち華やぎ、嬉しさを半月に象って、鳥のような明瞭で心地良い声が改汰の耳に届いた。
「改汰……! 改汰だよね!?」
「えっ!? あ、ああ、そうだけど、」
「スズだよ! 私、スズ! 前に助けてもらった……!」
「えっ……えーっと……。」
 思い出せない。というよりも、心当たりがまるでない。夏休みに入る前に電車で席を譲った気もするが東京の話だし、第一、あれは杖をついた老婆だった。
 だとすれば、高校の入学説明会? 部活の体験入部? 塾でノートを拾った、とか?
 改汰は記憶のページを必死にめくっていくが、そのどれにも目の前の顔はなかった。そもそも、こんなにも可愛い女の子を助けたことがあれば、忘れるはずがないのである。
「……覚えてない?」
「あっ! ご、ごめん!」
 しゅんと、耳があれば折れているだろう少女に、焦りを隠せない。しかし少女はすぐに笑顔に戻って、言った。
「ううん、いいの! ずっと前だし!」
 まただ――。先ほどから浮かんでは消えるこの懐かしさの理由を、改汰は手に取れずにいる。夏の土埃の匂い、薄萌黄、未来への萌動、何より埋め尽くすのは懐かしさ。ひどくノイズの乗ったフィルムのように、それらが改汰の中を駆けては余韻を残さず消えていく。
「……えっと、スズ、さん? 腹減ってるだろ?」
「『スズ』だよ! 改汰!」
 少女が心底不服そうに眉を寄せるので、改汰は咳払いをひとつして、呼びなおす。
「じゃあ……スズ。」
「うん!」
「腹減ってるか?」
 スズは満面の笑みを浮かべて答えた。
「うん! ものすごく!」
 本当に空腹だったようで、スズはよく食べた。白米は茶碗山盛り三杯、魚は皮まで、煮物は汁まで。美恋は「それだけ食べて細いって羨ましいわあ……。」と感心しながらスズの景気の良い食べっぷりを観察していた。食事の席につく直前、改汰はスズにどうしてあんなところで倒れていたのか尋ねたが、ばつが悪そうに口を噤んでしまったので、それ以上言及することはかなわなかった。
「スズちゃん、お家どこだか分かる? もう遅いからおばさん送って行ってあげるわ。」
 美恋の母の言葉に、祖父が「もう遅いから泊めてやろう、」と提案し、
「まあ、泊めるのは構わないが、親御さんも心配してるかもしれないしなあ。」
 と、美恋の父が頭をかく。スズは箸を止め、皆をぐるりと見回した。そして意を決したように口を開く。
「あ、あの私……! 私、ここに居てはダメでしょうか?」
「えっ!?」
「お掃除も、お料理は……苦手だけど手伝います! だから……だから、お願いします!」
 頭を下げるスズに困惑しながら「まさか家出なんじゃない?」「ならなおさら警察に……。」と、美恋の両親が耳打ちしあう。それをすぐ隣で聞いていた美恋が「まあまあ、落ち着いてよ。」と宥めた。
「家出かどうか分からないけどさ、この子も動揺してるだろうし、もう少し時間置いてからでも良いんじゃない?」
 それから美恋は「あの子の傷、虐待かもしれないし……。」と、両親にだけ聞こえる声量で付け足す。「まさかそんなことがあるはずは、」「いやでも、」と両親は口々に思案し、その間のスズはといえば、大きな瞳を潤わせて縋るように改汰を見つめていた。
「あ、あらたぁ……。」
「えー、えーっと……?」
 続いて「改汰。」と、決まり良く呼ぶのは美恋であった。反射的に彼女のほうを見やって、ぱっと視線が合った。不思議なことに、美恋が一体何を言いたいのかが良く分かるのは、悪戯な子どもだった頃の名残だ。
「じいちゃん! 事情はおれと美恋で聞いておくから、夏休みの間だけでもここに置いてあげられないかな?」
「わしは最初から良いと言っているだろうに。」
 家主がそう言うのならと、美恋の母はさすがに折れたようである。
「しょうがないわね。親御さんと連絡取れるなら、ちゃんと連絡するのよ。」
「はいっ……! ありがとうございます!」
 その晩、美恋は改汰とスズを連れて家の一室に布団を三組敷いた。六畳ほどの部屋は普段は客間になっており、親族が寝泊りするのに使われる。蚊取り線香の煙が夜風に運ばれてスズが控えめにくしゃみをした。半月が蜂蜜色に輝く、涼風吹く穏やかな夜であった。
「スズちゃん……だっけ? あたしも昔家出したことあるから分かるけどさ、なるべく早く戻ってあげなね。友達の家に一晩泊まっただけだったけど、母親にめちゃくちゃ泣かれてさ~。その時はさすがにちょっと悪いことしたなって思ったから。」
「は、はい……。」スズは、か細く返す。
「あ、タメ口でいいから!」美恋が手を止めて言った。
 スズはその意味が分からず、首を傾げる。
「ため……?」
「改汰に喋ってるように私にも喋ってってことよ! ね?」
 美恋が器用にウィンクを投げてみせる。
「わかりま……わかった……!」
 美恋はスズの返事に満足してうんうんと頷くと「よーし!」と大きく背伸びをした。薄手のタオルケットが改汰に放り投げられ、なんてことはないというようにキャッチする。
「なら今日はさっさと寝よーう! スズちゃんも疲れてるでしょ? 面倒くさいことはぜーんぶ明日!」
 果たしてこれで良いのだろうか。奇妙なことになってしまったと、改汰は等身大のスクリーンを眺めるようにぼんやりと思った。





 それで、突き抜けるような縹色が天を一色に染め上げ、高々とそびえ立つ山の向こうで小さな雲がぽつぽつと浮かんでいる晴天の朝であった。このところ、睡眠と覚醒のあいだを幾度もゆらゆらと漂っては、気付けば時計の針もあといくらか経てば頂上で重なるといった具合に惰眠を貪っていた改汰だったので、布団を剥ぎ取られて咄嗟に時計を確認し、再度枕に頭を突っ伏した。
「おはよう! あーらーたー! そろそろ起きて!」
「…………まだ七時でございますよスズさん……。」
「『スズ』! それに”もう”七時だよ!」
 再度布団に包まる改汰をスズが力の限り阻止する。つかの間の攻防戦が始まった。それも長くは続かず勝利したのはスズのほうであった。すぐさま布団は剥ぎ取られ、嫌味なほどに燦燦とした朝日が改汰の網膜を刺激した。
「おはよ、あらた!」
 かんばせに咲かせる笑顔はさながら白丁花を想起する。改汰は観念したように「おはよう、」と挨拶を返した。スズは満足げにひとつ頷くと「朝ご飯できてるよ!」と改汰の手を引く。寝癖をつけているものの、珍しく祖父達の朝食の席に姿を現したので、皆、口をそろえてスズの功績を称えた。
「もうスズちゃんにずっと居てもらいなさいな。」
 美恋の母が冗談交じりに言った。
「これから毎日こんなふうに起こされるのか……。」
 想像しただけでもげんなりする。起き抜けに啜った味噌汁の味は濃く感じた。おしどりのさえずりが山のほうから聞こえてくる。暢気な空気を浴びながら、冴えない頭で箸を突き、茶を啜った。「改汰の髪、鳥の巣みたいだね!」と、屈託なく笑うスズにつられて周囲も笑顔を咲かせる。「女の子ひとり増えるだけで華やかさが全然違うのお。」にこにことした表情の祖父に、美恋も「あたしも妹ができたみたいで楽しいよ。」と続けた。野上家は男系家族なのは昔から言われていたことであったから、猶更なのかもしれない。
 スズが食器を洗いに台所に立った瞬間、美恋は深刻な表情をして部屋の隅に改汰を手招いた。彼女は早朝だろうが化粧に余念がない。マスカラをたっぷりと乗せた睫毛をわずかに震わせて、おずおずと話し出した。
「スズちゃん、見るもの全部驚いちゃっててさ。家電、今まで使ったことないみたいで。スマホもテレビも物珍し気に見てたの。この時代によ? あり得る? 記憶失くしちゃってるんじゃないかと思って。それともどこかにずっと監禁されてたとか。やっぱ病院連れて行った方がいいのかな……。」
「はあ……さすがに突拍子なさすぎるだろ。」
 改汰は頭をかく。何かの冗談かと疑ってはみたが、美恋が珍しく眉を顰めているので、スズのその反応は純粋なものだったのだろう。
「美恋も言ってただろ、虐待の可能性もあるって。なら病院に連れて行って、警察に通報されたらスズのためにならない。もう一日、二日、様子を見てみよう。」
「……そうね。」
 ふと、スズのほうに目を遣ると、美恋の母の隣に立って懸命に食器を拭く後姿があった。使い込まれた食器を、水滴を残さず拭いていく。美恋が貸したワンピースからすらりと伸びる腕としなやかな指先が、陶器を慈しんで触れているように見える。スズを瞳にうつすたびに、正体不明のざわめきを改汰は感じていた。薄い紙に幾重にも重石を乗せられて、無理やり引っ張れば破れてしまいそうな、そんな危うさを含んだなにかである。改汰はそれを知らないふりをした。
 意味など見出しても仕方がないことだと考えていた。





 弱い白熱灯を灯した薄暗がりの鏡のなかで、もうひとりの自分と目が合う。夜が更け、木々も寝静まった頃に、スズはそっと布団を這い出た。風呂場前の洗面台に立ったのは、先ほどから熱を帯びた箇所を確認するためで、瞼をおろし、ひとつ息を吐いてから、キャミソールの裾をたくし上げた。それから目にしたのは、スズの白い腹に痣のように浮き出る、黒い鈴蘭の模様であった。右下に小さく、けれどもはっきりとその存在を示している。スズは驚きで息が詰まり、けれどもすぐに呼吸を整えた。心のどこかで分かっていたことだ。まるで「これは罰でしょう?」と、鏡の中の彼女が問いかけているようだ。
 それは、会いたいひとに会うための唯一の方法。太陽のように優しくて、あたたかくて、手を伸ばしたかったひと。また触れたいと願った。
 時間は、あるのだろうか。ふと、スズは考えた。何も分からない、何も知らない、手探りにもならない暗闇に飛び込んだ無謀な旅の始まりに、ぽつねん、鏡の前に立ってようやく思考が巡りだした気がした。
「それでも、逢えたんだ。」
 改汰の顔を思い浮べる。あの日、幼い彼と別れを告げてから、少年がこの村に帰ってくるたびに遠くから見ていた。夏がやってきて、厳しい冬を越えて、また夏がやってきて、あなたがやってくる。年々大人びていく彼の姿に、あと数年もすればこのままどこか遠くへ行ってしまう気がして、そして忘れていることすら忘れられるのは嫌だとおもった。だから、タブーを破ってここまで来た。
 寝間へと戻る縁側は開けっ放しになっていて、夜の薫風があまい匂いを運んでくる。何処か遠くで草木が蒸留しているような、肺に湛えると心の尖ったものが丸みを帯びる風だ。肌を撫でるそれは、昼よりも幾分か涼しい。庭は黒橡の闇に覆われ、頭上にある月がいくらか景色の解像度を底上げするような、灯りのすくない真夜中である。その向こうに、スズは気配を感じて丸い目を凝らした。
「スズ。」
 名を呼ばれ、聞き慣れた声で正体が明らかになる。几帳面に剪定された山茶花の梢が不自然に音を立て、闇と混じった黒い狐がこちらに歩いてきた。足取りは水面を渡るように、傷みのない毛並みが月光で白く光る。菊丸は気品を隠さない狐であった。
「菊、どうして!? ここに居ちゃいけないよ!」
「それはお前もだろ。」 
 菊丸が呆れたように返す。菊丸のつやつやとした二つの瞳が、頭の先から足の爪までといった具合にスズの姿をまじまじと捉える。スズの居心地が悪くなった頃に彼は盛大にため息を吐いた。
「やっぱり山神様の祠に入ったのはスズだったんだな。どうやって……いや、どうして……、」
「……気付いてたんだね。私だって分からない……でも今しかないって思ったの。」
 スズは無意識に握りこぶしをつくっていた。その返答に菊丸は嫌悪感を示した。
「分からない、ってなあ……今、狐塚(さと)は『花』泥棒捜しで大混乱だぞ! お前の仕業だってバレるのもそう遅くないんだ。言い訳は後でたっぷり聞いてやるから、帰るぞ。」
 菊丸が有無を言わさない態度で背を向ける。いかにもスズが大人しくついてくるだろうといった振舞い方であった。菊丸は昔からそうであった。掟や規律といったものには殊更敏感で、背くことを極度に恐れているのをスズは知っている。スズの足が半歩前に出て、しかしぐっと留まった。せっかくここまで来たのだ。大人しく帰るわけにはいかない。後ろ髪を引かれる思いに一瞬たじろいで、すぐさま負けん気に居直った。
「やだ。」
「はあっ!? 何言って、」菊丸が驚きと苛立ちで声を荒げる。
「絶対にいや。私、帰らないよ。」スズが語調を強めて遮った。
「スズ……?」
 菊丸が呼びかけて、寝間のほうから寝ぼけた声がした。二人は廊下の奥に視線を向ける。「おーい……スズぅ?」と、改汰がスズを捜している様子であった。早く戻らなければ。菊丸も見つかったら大ごとだとばかりに素早く踵を返す。その際、一言、言い放った。
「スズ……目を覚ませ。お前の居場所はここじゃない。」





 菊丸は大層苛立ちを覚えていた。雑木林の茂みには、闇に紛れて隠れるように豆千代が待っている。隣にスズが居ないこと、そして菊丸のぴりぴりとした様子に、豆千代が「どうだった?」と恐る恐る尋ねてくるので、菊丸は思わず鼻で嗤ってみせた。豆千代はびくりと四本脚を震わすが、菊丸はお構いなしであった。
「どうもこうも。立派に『人間』だったぜ。」菊丸が吐いて捨てるように答える。
「そんな……やっぱり山神様の『花』を食べたのはスズちゃんだったんだ……。」
 山神様の祠に近づいてはいけないのは、狐の絶対の掟である。狐は幼い頃から『あそこの祠はこの山を守っているから、安易に近づいてはいけない』と大人たちに口酸っぱく言い聞かされるのだ。そして、それは強い妖力が祠に秘められていることを意味する。また、狐と人間は分断された世界であるから人里に下りてはいけないし、人間に近付いてもいけない。菊丸の家系はとりわけ掟に厳しく、菊丸はそれを自覚し、遵守していた。黒狐であることは、妖狐の中でも特異な血が流れている証拠であった。
「スズはなんであんなやつのとこに……。人間は勝手で、愚かで、関わると碌なことがないって言うのはあいつも分かってるだろ! なのにどうして!」
「お、落ち着いて、菊丸くん……今日はもう帰ろうよ。わたしたちも掟を破ってるんだよ……。」
 菊丸は豆千代をキッと睨みつけた。人里に降りる禁忌を犯している緊張もあってか、いよいよ豆千代の目が潤む。こうなってしまうと菊丸は我に返らざるを得ない。豆千代が泣くのは本意ではないのだ。
 落ち着け、豆千代は何も悪くない、掟を破ったのは自分の判断だ――そう自身に言い聞かせ平常心を保とうと、菊丸は深呼吸をする。
「……もういい。別の策を考える。」
「わ、わたしも! 協力するよ……! スズちゃんのことが心配だし!」
「いいや、お前が居たって足手纏いなだけだ。大人しく俺に任せて、豆千代は何もするな。いいな?」
 豆千代は何か言いたげにして、けれど「うん、」と小さく頷いた。豆千代は友達想いで誰に対しても献身的であるが、特にスズに対しては同居していた時期もあってか、家族のように慕っているのは菊丸も理解している。けれども、今回ばかりは状況が悪すぎるのだ。だから幼子のように不安で瞳を揺らす、この菊丸より幾分かちいさな狐に、今度はつとめて優しい声で諭した。
「必ず連れ戻すから、安心しろ。な?」
 豆千代は数拍、間を置いて「分かった。」と、先ほどよりは大きく頷いた。





 早朝の空気が好きだ。山あいにある村なので、四季の移ろう境目がはっきりとしている。そして、どんな季節でも早朝のぴりりとした冷たさはスズの頭を明瞭にした。昨晩、菊丸との会話が頭が離れずほとんど寝付けずにいたが不思議と眠くない。神経が昂っているようである。スズは黎明の神社の前で、ゆったりと白んでいく空を仰いだ。木々の影が薄らいで、鈴虫の鳴き声が次第に小さくなり、鳥が歌いだす。独りの「おはよう。」は慣れていた。
「おや、早いお目覚めじゃの。」
 装束を纏った改汰の祖父が箒を持ってスズに笑いかけている。律儀に深々とお辞儀をするスズを制止して、祖父が隣に立った。
「この神社は戦国時代に兵火にかかって一度焼けてしまっての。再建されたが文化財となるものはほとんど残っておらんのじゃ。それでも良い神社じゃろう。こじんまりとしながらも、威風堂々としておる。」
「そうですね……。」
「何か悩み事かね?」
 笑顔を貼り付けながらも歯切れの悪いスズの返事を以て、祖父は単刀直入尋ねた。おそらく最初から気付いていたのだろう。そして二人きりだから切り出せたのだ。スズはどう打ち明けようか迷って、祖父は急かすことなく待っていた。
「……私、本当にここに居ても良いのでしょうか。」
「どうしてそう思うんじゃ。」
「え…………っと……、」煮詰まるスズに、祖父は穏やかに続ける。
「スズちゃん。この神社は遠いご先祖様の言いつけで、旅人には寝床と飯を与え、手負いの獣を見つければ手当てし、いつの時代も弱き者や困った者に手を差し伸べてきた。そうやって野上の人間は自然や人々と寄り添ってきたのじゃ。それは今の時代も変わらん。」
 それは気にせずここに居ても良い、ということだ。野上の人間が優しいのは、スズにとっては今更というほどに知り尽くしている。ここは今も昔も変わらない、冬の焚き火のように温かい家であった。――おばあちゃん。今は亡き顔が脳裏を過ぎる。皺だらけの優しい手、恐怖に満ちた心をすっと落ち着けてくれた。
「スズちゃんの気が収まらないというのなら、いつか誰かに同じようにしてあげなさい。縁というものは、そうやって続いていくのじゃ。」
 スズは目を閉じて俯く。そして、何か決心したふうに頷いた。
「……はい。ありがとうございます。私、朝食作るお手伝いしてきます! あとそれと……ええっと、家族ではないんですけど……身内にはもうしばらくここに居たいと伝えました。」
「そうか。なら、そうしなさい。」
「はい!」
 スズは晴れやかな表情をしてすぐに背を向けて走り去っていった。だから、祖父が履いている草履の鼻緒が突如切れたのに気付けなかった。「何か縁起の悪いことが起きそうじゃの。」という祖父の呟きも。遠くで合歓木が揺れた。





 今朝も早起きのスズに起こされて、改汰は瞼を必死に開けながら朝食の席についた。美恋の母が顔を合わすなり「スズちゃん、ご身内の方と連絡取れたって。もうしばらくここに居るみたい。スズちゃんは良い子だけど、ひとつくらい直接挨拶くれたって良いのにねえ。」とスズが聞こえないところで言っている姿に、改汰は自身の母を思い起こす。母親というのは皆こういうものなのだろうか。お小言が多く、独り言も多い。「ふーん。」と生返事すると「ちゃんと聞いてる?」と文句を言ってくるところにも『母親』を見て取れた。
「スズちゃんと遊びに行ったらどうじゃ。」
 食事中、漬物に箸を伸ばしながら祖父が珍しく提案するので、改汰は意外そうな顔をして「けれどもなあ、」と眉を下げた。
「遊びに行くって言っても、遊び場なんて限られてるだろ。」
「公園や、駄菓子屋のばあさんのとこや、川原や、たくさんあるじゃろ。」
「じいちゃん。おれたち、もう高校生だよ。そんなとこ行ってもスズがつまらないだけ、」
「行きたい! 改汰、連れてって!」スズが身を乗り出す。
「ええっ!? ま、まあスズがそう言うならいいけど……。」
 ひとつひとつが細かな傷だったからか、スズの怪我はほとんど治癒していた。それにしても二日前に倒れていたとは思えないほどの回復具合である。この様子なら数日のうちに帰っていくだろう。改汰は暇つぶし程度に遊んでやろうという気で、朝食後、すぐにスズと玄関を出た。蝉時雨はすでに始まっていて、むわっとした暑さが薄手のTシャツの中にまで纏わりつく。祖父の言いつけで、二人は神社に寄った。改汰が手際よくおこなった二礼二拍手一礼にスズは困惑しているようで、それに気が付いた改汰はスズが手順を追えるように再度、今度はゆっくりと動作した。
「それで、手を合わせて、心の中で神様にお願いして。」
「お願いって、どんなことでもいいの?」
「うん、まあ。」
 美恋の言う通り、本当に記憶喪失なのではないかと疑ってしまう。けれど日常生活に支障はないので、首を傾げるばかりだった。スズは目を閉じて手を合わせていた。そして、改汰も倣って瞼を下したところで、何を願ったら良いのか分からない自分がいた。
 願いがない。それはあまりにも虚しくないか。未来に期待していないわけではない、諦観するほど成熟しているわけでもない。薄っすらと目を開けると、スズはまだ何かお願い事をしているようだった。何をそんなにも願うのだろう。けれどスズは『訳アリ』のようだ。きっと願い事なんて山のようにあるのだろう、そしてそれをひとつずつ神様に聞いてもらっているのだろう。――そう思った。だから「この子の願いが叶いますように。」と心の中で呟いた。それが本心であったからだ。
 それから二人は改汰が昔よく遊んだ公園だとか、自転車で勢いよく滑って危うく大怪我になりかけた急勾配の坂だとかをひとつひとつ見てまわった。改汰にとっては思い出深い場所でもスズにとってはとても退屈なのではないかと心配したのも束の間、スズがあまりにもにこにこと嬉しそうに聞いているものだから、心配は無用だった。だから、深いことを考えるのは止めて、あまり気を使わないことにした。途中、改汰が昔ここに滞在した際には足繁く通った駄菓子屋があった。足が悪い老婆が店番をしている、昔ながらの店だ。中は狭く、大人が二人も入ればほとんど身動きが取れない。暖簾が出ていたのでおそるおそる潜ると、記憶よりもひとまわり小さくなった老婆が古木の椅子に座っており、こちらに気付いて微笑を浮かべた。
「おや、随分と大きくなったねえ。」
「お久しぶりです。あの、おれが分かりますか?」
 改汰は頭を下げ、老婆は頷いた。
「神社の爺さんのとこのだろう。たしか名前は、」
「改汰です。」
「ああ、そうだ、そうだ、改汰だったな。で、そちらのお嬢さんは? 改汰の『イイ人』かい?」
「なっ……!? そんなんじゃないです! ただの友達で!」
「初めまして! 私、スズといいます!」
 老婆はスズをまじまじと見つめて、それからニヤリと口の端を吊り上げた。
「ははあ、これまた珍しいお客様が来たもんだ。」
 たしかにこの辺りには若者は少ないから珍しいのかもしれない、と改汰が考える横で、スズはなぜか肩を強張らせ、緊張しているようであった。
「長生きしていると稀にこういうことがあるのさ。警戒しなくて大丈夫だよ。慣れてるんだ、色々とね。」
「ちょっと意味が……。」
 改汰が言いかけて、老婆が手のひらで扇ぐ仕草をしてみせる。
「こっちの話さ。ほれ、せっかく若人が二人も来たんだ、突っ立ってないでアイスでも買ってお行き。」
 言われるがままにふたりはアイスを買って、店の前で食べた。暑さですぐに溶け出し、ぽたぽたと地面に鮮やかな染みをつくる。スズが急いで食べようとして頭を痛くしている様子に、改汰は苦笑した。それから村を少し下りたところにある川原に寄ることにした。幼い頃はそこで釣りをしたり、石を投げたりして遊んだものだ。美恋に頼まれて綺麗な石を探したこともある。丸みを帯びた真っ白い石を見つけて、帰ってからも彼女は飽きずに眺めていたのを覚えている。「これはねえ、山のかみさまの涙なの。かみさまが泣いて、それがかたまって、きれいな石になるんだよ。」
「改汰もおいでよー! 冷たくて気持ち良いよー!」
 水に濡れないようにワンピースの裾を手繰り寄せて、白く細い脚を大きく振り上げる。浅瀬の水面がぱちゃぱちゃと涼しげな音を立てた。
「そんなにはしゃいでると滑るぞー!」
「不思議なの! 向こうの水は緑色なのに、近づくと透明なんだよ!」
 スズが指さした先の水面は翡翠色に輝き、そこだけ絵具を落としたように、手前側に向かって綺麗なグラデーションを描いていた。
「ね、なんでかな?」
「さあね。」
「私、あっち行ってみる!」
「あ、ちょっと……!」
 無防備に川を横切るスズを見て、改汰の足が自然に動き出す。数歩動いたスズの身体が前傾したものだから、肩を掴もうとした手はそのまま彼女の腹にまわり、スズの全身を濡らさずに済んだ。二人共、何が起こったか分からずに幾ばくかの時が流れる。川のせせらぐ音、腕から伝わるスズの脈動、腹で感じる高めの体温。花の蜜のようなあまい匂い。そういうものを全身で感じた。それからスズが耳を真っ赤にしながら口をはくはくしているのに気付き、ようやく現実に引き戻された。
「あっ……ごめん!」
 咄嗟に身体を離すも、感じていた熱が余韻を残して纏わりつく。
「ううん、えっと、ありがとう。」
「お、おう……あっちは深くなってるから気をつけて。」
「うん……気を付ける……。」
 今日は灼けるように暑い。濡れた服はすぐに乾くだろう。スズが恥を隠すようにはにかんだ。
「そろそろ行こっか! 私、ちょっと疲れちゃった!」
「おれも。村の入り口まで戻ってジュースでも飲むか。」
「さんせーい!」
 村の入り口には美恋の一家が住む町とを繋ぐバス停があって、一日に三本停車する。けれどもバスを使う人間はほとんどおらず、改汰も使ったことがない。長年雨風に晒されて錆塗れになった時刻表は一見すると廃駅だが、毎日律儀に通過する。真上の太陽が下りそろそろ西日となりかける時間、最終バスはすでに出発した後だった。その横に自動販売機があって、小綺麗な佇まいをしている。時間が止まったような村のなかにぽつぽつと見かける新しいものは、都会に住む改汰の気を幾分か楽にさせる。二人はサイダーを買った。プルタブを開けて、気の抜けた音に夏を感じる。山からはすでにひぐらしの鳴き声が聞こえ始めている。花潜が路肩に咲く花を食べている様子を、スズが興味津々に凝視していた。
「そういや身内の人と連絡取れたって聞いたんだけど……大丈夫?」
「大丈夫、ってなにが?」スズはきょとんとして改汰の方を向いた。
「いや、心配してるんじゃないのかなって。」
「心配はしてくれてたけど……帰ってもね、ひとりだし……。」
「ひとり?」
「私ね、お母さんとお父さんはずっと昔に死んじゃっててね、私を家族同然に育ててくれたお家もあるんだけど、家族が増えるから昔住んでた家にひとりで戻ったの。」
「それは……寂しいな。」
「あっでも大丈夫だよ! 学校に行けば友達がいて楽しいし、狐塚(さと)の人たちが気にかけてくれるし!」
 改汰は「里の人……?」と首を傾げる。この周辺の、別の村から来たのだろうか。家出のきっかけはそれと関係あるのだろうか。改汰が尋ねようとして、
「だから、大丈夫!」
 もう一度「大丈夫!」と繰り返すスズの表情が強張っている気がして「この子は嘘をつくのが下手なのだなあ。」と改汰は直感的に思い、なんとなくこれ以上何も聞けなくなってしまった。
「私の話はまた今度。ね、それよりも改汰の話聞かせてよ。」
「おれの話?」
「うん。えっへん、改汰に質問です! 改汰が好きなことはなんですか!」
「インタビューにしては雑な質問だなあ!」
 そして最も苦手とする質問であった。美恋に言われたことを思い出す。『何かやりたいことないの? 好きなものは? 進路相談ならお姉さんが聞くぞー?』自室に置き忘れてきた白紙の進路希望調査、常に『普通』を維持する成績表。考えすぎて重くなった頭を支えきれない感覚に、何度もベッドに寝そべって天井を見上げた。
「好きなものって、皆そんなにハッキリと持ってるものなのか?」
「改汰……?」
「おれさ、昔野球をしてたんだけど、ある時友達に大怪我させちゃってさ。それまでは楽しくて、楽しくて、毎日野球のこと考えてたんだ。監督や周りの大人は『お前は悪くない』『こんなこともある』って言ってくれたよ。でも、親が菓子折り持って相手の家にぺこぺこ頭下げてるの見て、チームメイトにも距離を置かれてるのを感じて、怖くてグラウンドに立てなくなって、多分その頃からかなあ。好きになって打ち込んでもまた何かの拍子に水の泡になってしまう気がして、そんなふうにのらりくらりとしてたら、自分が何を好きなのかさえ分からなくなってた。」
 気が付けば勝手に口から滑り出てくる言葉たちだった。改汰の脳とはほど遠いところで、余計なフィルターを外して感情が音になる。きっと、ずっと誰かに打ち明けたかった悩みだ。スズなら馬鹿にせず、説教垂れず、聞いてくれる気がした。実際、スズはじいっと黙って、相槌だけ打っていた。その度にスズの髪についた鈴がちりんちりんと透き通るような音を立てた。
「何になりたいのか、何をしたいのか、何をするために生まれてきたのか……。小さい時はこんな事、考える事も無かったのに。あの頃は何にだってなれた。おれは何かを好きになることもなく、生きていくんだと思う。」
「改汰は優しいんだね。優しすぎるんだね。」
 改汰の右手に、スズの左手が添えられる。あまりにも自然で、恋人のそれというよりも母親から子へ、祖母から孫へ、そんな慈しみを含んだ体温だ。鉛を飲み込んだ心が、不思議と軽くなっていく。スズは魔法遣いなのかもなあと、柄にもないことを考えた。スズの長い髪が揺れて、ふわりと、花のような甘い香りが漂ってくる。差し詰め、美恋から借りた香水か何かだろうと改汰は勝手に当たりを付けた。そしてそれがまた改汰を落ち着けた。道の向こうから車が近づいてくる音が聞こえるまで、しばらくそうしていた。

【続】

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